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メンターについてゆく

カレーにラーメン、蕎麦やスウィーツ
それぞれのメンター(師匠)たち。
その深い愛情と探究心ゆえ、あらゆる名店を
食べ歩き、ついには偏愛の書までを上梓する
彼らの「もっとも熱いヒトサラ」とは?
頭もお腹も満たされる、いいとこどりの贅沢時間です。

メンターについてゆく03 / TEXT:本間裕子 PHOTO:嗜好品LAB ILLUST:藤田めぐみ / 2014.11.25 パンラボ主宰・池田浩明さんと練馬区富士見台「藤乃木製パン店」の「お惣菜パン」

パンの研究所「パンラボ」を主宰する池田浩明さんは、東京近郊のパン屋200軒を3年以上かけ取材したり、日本中に点在するパンの聖地を旅した本を綴ったりと、すべてのパンに等しく深い愛情を注ぐ、正真正銘のメンター。
そんな愛情の結晶ともいえる自著『パンラボ』や『サッカロマイセスセレビシエ』の刊行を経て、パンのつくり手のみならず、パン自体の性格や気持ちをも理解できるようになったという池田さんが、今回「ビールに合わせるならこれ!」として紹介してくれたのが、練馬区富士見台の商店街に店を構える「藤乃木製パン店」。時代を超えて愛される「純和風のお惣菜パン」を、昭和30年代から焼き続けている一軒だ。
商店街を駅まで戻り、ビールを買って石神井公園へ。せっかくなので…とスワンボートに乗り込み、インタヴューがスタート。秋晴れのののどかさとは裏腹に、話はどんどんとディープな方向に転がって……。

パンが発する周波数。頭の中の座標軸

藤之木の輝ける陳列棚。写真は「午後編」で、朝~昼の混雑を過ぎてから並べられるパンは、ひとつひとつ丁寧にラップされている。

 実は、自分がパン好きだと自覚したのは大人になってからなんです。美味しいバゲットを家にたどり着くまでに食べ切っちゃうとか、パン屋さんを見つけたら入らずにいられない衝動に駆られるとかは、あえて口に出さないだけで、みんなに起こっていることだ思ってた。でも、友人に話すとどうやら違うらしいぞ、って(笑)。専門誌以外でもパンが特集されるようになって久しいですが、僕がパン好きを自覚した20歳頃には、パン好きの気持ちを共有できる場所というもの自体がなかったですから。
 パンラボを立ち上げようと思ったのは、パリ遊学中に経験したプルースト現象(※ある特定の香りから、それにまつわる過去の記憶が呼び覚まされる心理現象)がきっかけ。いつものように公園のベンチでパンを食べていたとき、小学2年生の自分がブリオッシュの美味しさに打ちのめされている記憶がまざまざとよみがえってきたんです。そうだ、自分はあの頃からパンを愛していたんだな、と自覚して、内側から湧いてくる熱い想いを書かないわけにはいかないという使命感から、2008年にパンラボをスタートさせました。

 編集者として「パリのおさんぽ」シリーズ(竹書房)などのヒット作を手がけたキャリアを持つ池田さんは、いわばガイド本づくりのプロ。既存のセオリーを軽やかにスルーし、五感をフル稼働させてパンの世界を旅するようなテキストは、読み手に高揚感を与えてくれる。「パン好き=ほっこり系」という先入観を覆すパンク魂は、本屋さんでも異彩を放っている。

池田浩明さん。「これも、あとこれも…」と、いつまでもトングが止まらない。
くたっと隣にもたれかかる様子も愛らしい、ふわっふわのサンドイッチ。 注文を受けてからつくられる「ピーナッツコッペ」のため、レジ横に常備されたクリーム。幸せの乳白色。

 パンって食べ続けていると味に対する受信能力が開発されるんですよ。味って周波数みたいになっている。「このパンがいちばん美味しい」みたいに思うこともあるかもしれませんが、それは「TBSラジオがいちばんおもしろいよね」って信じ込むのと似ている。その周波数はビンビンに受信するけど、ほかの周波数は開発されてない。もちろん自分好みのチャンネルに出合えることは幸せなことですけど、僕が知りたいのは「いちばん美味しいのはどれか?」ということではない。「美味しい」「まずい」って言い出したときに探求は終わってしまって、それぞれのパンに秘められた個性を見つける感度も落ちてしまうと思っています。
「すべてのパンを愛する」というのが僕のモットーなんです。部分的に掘り下げるのではなく、縦軸/横軸のある座標軸を自分の頭の中に広げて、このパンはどこに分類されるんだろう?って考えたい、俯瞰して全体を見たいんです。ランキング思想をやめて、自分の座標軸を持つというのは、パンに限らず、さまざまな対象でおこなえる自由度の高い楽しみだと思います。
 たとえば単行本『パンラボ』としてもまとめられた月に1度の「比較テイスティングの会」、これは1種類のパンを集めて食べ比べるという会で、最初のお題はバゲットだったんですね。ただ、バゲットって、小麦粉と酵母と塩と水という極めてシンプルな構成でできているものだから、99%いっしょで1%違うものを食べ比べている状況なんですよ。果たしてこれが原稿になるんだろうかと不安にもなりましたけど、食べているうちにこれは明らかにすべて違うぞ、と。そこから自分なりの座標軸ができてきて、バゲットの個性を位置づけられるようになったときは、静かに興奮しましたね。バゲットのセレクトは「パンの新聞」を50号まで発行したことでも有名な愛パン家の渡邉政子さんにお願いして、テイスティングには目白「かいじゅう屋」店主の橋本さんや担当編集者、デザイナーさんにご参加いただきました。プロ/アマいろんな立場の意見が交錯することで、とても学びの多い会になりましたね。みなさんに感覚を鍛えられたおかげで、今では初めて向き合うパンでも、味のイメージや残像というものを、自分の座標軸に記憶できるようになったと思います。

パンとお酒、それぞれの個性を引き出す組み合わせ

 そんな池田さんが東京近郊の200軒ものパン屋を取材する過程で出合ったのが、「藤乃木製パン」。使い込まれた陳列棚に、ふわふわツヤツヤのパンが整列するさまは、誰もが擬似的郷愁に誘われ、しばらくすると多幸感に包まれる。取材中に訪れた品のよいご婦人も、「引っ越したあともここのパンが忘れられなくて、今でもちょくちょく通っているんですよ」と笑顔で語る。「深く長く愛される町のパン屋さん」、その見本のような一軒だ。

「パン屋がこれほどまで忙しいと知らなかった!」と語る、シャイでキュートなお嫁さん。お惣菜パンが大好きで、新メニュー開発の厳しいご意見番でもある。
午後の商店街にベストマッチの看板と外観。たっぷりな収穫に期待が高まる。

 とくに主張することなく商店街の風景に溶け込んでいるので、見逃してしまうんですよね。僕も最初はそうでした。昔ながらの佇まい、昔ながらのお惣菜パン。でも食べると全然違う。「懐かしい」なんていう言葉なんてとても使えない、新たな発見があるんです。僕は何度も通って、二代目店主の加藤さんと会話を交わすようになったものの、謙虚なお人柄なので「特別なことはなにもしていませんよ」とおっしゃる。でも、違うものは違う。あとに取材させていただいて、お店の奥の工場に構えた重厚なオーブンを見たとき、その秘密がわかりました。

 現在の藤乃木製パンで使用されているオーブンは昭和43年製。便利さや機能性とはかけ離れた、使い手のセンスや感覚が問われる「生き物」なのだそう。店主の加藤さん曰く、「定期的にメンテナンスをお願いしている修理屋さんに見放されたら廃業でしょう」とのこと。

 手間を省く方法なんていくらでもあるんですよ。でも、そうしない理由がある。決して古いものに対する固執ではなく、加藤さんが重視しているのは味。それはパンの姿形からもわかります。こんなに美しい焼き色、最新の機械を導入しているお店でもそうそうないですから。
『サッカロマイセスセレビシエ』を読んで、遠方から足を運んでくださったお客さんもいたようで、そういう話を聞くのはとてもうれしいです。でも、きっと、そのお客さんの地元にも素敵なパン屋さんがあるはずですよね。ガイドを眺めながら名店を廻るのも楽しいですが、それと同時に、地元の味を自分の舌で捉え直す楽しみというのもあると思うんです。近くのお店なら週に何度も通って顔なじみになることができるし、何気ない会話の中で感想を伝えることができる。「美味しかった」って直接伝えることができるのって、とても大切なことなんですよ。

駅までの帰り道、開店前の肉屋で牛スジ煮込みを100グラムを購入。「これを食パンに挟んでみたら美味しかったんですよ」と、閉じたシャッターも熱意で開かせる池田さん。

「陽射しがあるうちに、ほかのカットも必要ですよね?」と池田さん。編集者ならではの気遣いをうけ、30分のスワンボート取材は終了。高台の芝生へ移動して、パンとビールを並べれば、ちょっとした背徳感が気持ちいい、平日のピクニックがスタートだ。

午後の陽に照らされた総菜パンは、どれもがみな主役。おやつ待ちの子どもたちはもちろん、散歩中の犬までもが、ジッとこっちを見つめていた。

「藤乃木製パン店」のようなお惣菜パンはビールの独壇場ですよね。照り焼きチキンバーガーやコロッケパンなどといった油ものとの相性は抜群。ビールはビールでも、缶ビールが合うような気がします。ほかのお酒だと、黒ビールにはライ麦でできた黒パン、重めの赤ワインにはカンパーニュなどの自家製発酵種(天然酵母)のパンが合いますし、甘いシェリー酒ならブリオッシュやレーズンを練り込んだもの。シャンパーニュにクロワッサンの組み合わせなんて、最高ですね。

「むちぃいいい~」と擬音をつけたくなるような、照り焼きチキンバーガー分断の図。
口に入れて静かに咀嚼した途端、パンの代弁者となる池田さん。そのオーラはさながらイタコのよう?!

 守備範囲の広さでいったら、やっぱりシンプルなバゲット。どんな飲み物や料理にも合う懐の深さがあります。中でも「ラ ブティック ドゥ ジョエル・ロブション」の発酵種の小さなバゲット(バゲット・ロブション)は赤ワインに合わせるのがおすすめですね。全体が外側の重い皮の部分という感じで、ワインの味を引き立ててくれます。さすがはフレンチのシェフがつくったパン。食べるたびに感動しています。
 パンにはフォークやナイフが必要ないし、外で気ままに食べるというスタイルも合っている。今日のようにビールを買って公園でパンを食べるなんて、贅沢ですよね。

総菜パンの花形=焼きそばパンの断面図。夜中に読んでる人ごめんなさい。 すぐにビールで流し込むのです。

ひとつひとつのパンを、インタビューするような気持ちで味わう

 日が暮れ始めた公園で、ビールを片手に、熱く淡々とパンへの愛を語る池田さんの姿はとても幸せそうで、ときおり神々しいほど。自分も気になる対象を見つけて座標軸をつくれれば、そのぶん幸せになれるかも……という短絡的な思考回路になってくる。

渋谷「ヴィロン」で購入した2種のクロワッサンを比較テイスティング。「外の空気にさらされて、ちょっと風味が飛んでしまったのが残念。本当はもっと美味しいんですよ」というフォローにも、パンに対する愛情がヒシヒシと。

 気になる対象が見つかったら、実験精神をもってさまざまなアプローチで歩み寄ってみることだと思います。今日も渋谷に立ち寄る機会があったので、「ヴィロン」でふつうのクロワッサンと、浅く焼いたクロワッサン・ドゥーを買ってきました。よく焼いたものはキャラメルのような強い甘さと香ばしさがありますし、浅く焼いたドゥーは微妙に揺れ動く乳酸菌的な甘さが特徴的。どちらがいいということではなく、どちらも違う魅力を持っているんです。焼き色の違いでクロワッサンの味がどう異なるか、今までも知識をベースになんとなくわかっていましたが、こうやって食べ比べてみることで、はっきりとした言葉で表現することができるようになる。ひとつひとつのパンをインタビューするような気持ちで味わって、疑問がクリアになっていく過程こそが、僕にとっては至福ですね。

件の牛スジ煮込みを「藤乃木製パン店」の食パンにサンドし、オリジナルのサンドウィッチが完成。「牛スジもいいけど、このこんにゃくがまたおもしろいんですよ」。勝手気ままなコラボレーションもまた、公園飲みの醍醐味だ。

 池田さんがパンについて話すとき、すべてのパンに等しく愛情が注がれているのを感じる。どんなプレイボーイでも、「一夫多妻」の絶妙なバランスをキープするのは困難だと思うのだが……。

 う~ん、それが不思議と大丈夫なんですよね。今日もお土産のつもりで買ってきた「ヴィロン」を、ここにくる途中で半分食べてしまいましたし(笑)、10年前に感動した「藤乃木パン」は今食べても美味しい。まだまだ勉強することが山積みの、ほんとうに奥深い世界です。たとえばSNSでコンビニのパンをアップすると、「そういったパンも食べるんですか?」って驚かれたりするんですが、そもそも個人店のパンと比べてどっちが美味しいとかいう視点で見ていないですから。綿密な市場調査をもとに莫大な開発費を投じて生み出されたコンビニのパンには、個人店にはできないアプローチがありますし、高級パンにはない気づきをもたらしてくれます。

パンラボの新しい試み、「小麦ヌーヴォー」とは?

 しかし「知りすぎていた男」にハッピーエンドは訪れない、というのが世の常。池田さんとパン、その相思相愛の歴史は長いゆえ、無責任にもストーリーの顛末が気になってしまう。ここまでひとつの世界に深く入り込んでしまうことで、たとえば「しがらみ」のようなものが生まれてしまったりはしないのだろうか。

 今ではパンを口に入れると自然とつくり手の顔が浮かぶので、それをしがらみのように思う方もいるかもしれませんね。でも、僕の場合は圧倒的に喜びのほうが多い。魅力的な方にもたくさん出合い、日々、新たな視点を教えていただいています。たとえば、パンを表現する言葉を探していた際には、代々木公園「365日」の店主に「色彩で表現するといいですよ」とアドバイスをいただきました。実際に杉窪さんは、小麦の風味を、黄色/グレー/茶色にわけて、それぞれに、甘さ/ミネラル感/全粒粉のような麦の表皮に近い香りという役割を与えることで、つくりたいパンのイメージに活かしているそうなんです。いずれワインのようにパンの表現を体系化したいと考えているので、杉窪さんの力はぜひお借りしたいですね。
 あと、原宿「レフェクトワール」店主の西山さんとは、「空想サンドウィチュリー」という企画でコラボレーションさせていただいていますが、その豊かな発想力に刺激を受けています。「一線から退いたら自分ひとりで小さなサンドウィッチ屋さんをやりたい」という西山さんの夢を、トライアル的に実現する連載企画なのですが、さまざまな場所で、段ボール製の屋台を開いて、西山さん特製のサンドウィッチをつくってもらうんです。たとえば本屋さんで開催したときはキャロットラペを挟んで文庫本に見立てたものに「ニンジン失格」の帯をつけて販売したり(笑)、大人が本気で取り組む「ごっこ」遊びは楽しいですよ(笑)。

池田さんの代表作『パンラボ』(白夜書房)。「これは漫画誌『パニック7ゴールド』内での連載を1冊にまとめたものなのですが、紙質もあえてザラザラした古紙のままで刊行しました。カルチャー誌のような〈ゆるさ〉を感じさせるデザインに、マニアックな内容というバランスが気に入っています。すでにあるものをつくっても意味がないですからね」

 ここまでくると、パンも池田さんに愛されて幸せだろうという気持ちになってくる。それぞれの個性や長所を受け入れ、さまざまなアプローチにより、本人すら気づいていなかった魅力をも引き出し、洗練された心地いい言葉で賞賛してくれる、そんな男性などそうはいないだろう。池田さんとパンの間に、この先なにが待っているのだろう。

「パンラボ」の新たな試みとしては、挽き立ての小麦を食べ比べる「小麦ヌーヴォー」というムーブメントに関わり始めました。状態のいい小麦粉、それにふさわしいつくられ方をしたパンに接していると、生命そのものを食べているような感動があって、小麦についてもっと知りたくなったのがきっかけです。ライターってスペックさえ押さえればうんちくを書けてしまうものじゃないですか? でも「国産小麦使用」と書いただけではどんな味なのか伝わらない。それを打破するためにも、まずは自分が小麦について学びたかった。
 今、日本の農家で収穫された小麦はサイロの中でいっしょにされてしまうから、つくり手の顔が見えない。そうなると、それこそ僕が藤乃木パンに伝えているような「美味しかったよ」というフィードバックも返せないし、つくり手だってやりがいを見つけにくいと思うんです。「小麦ヌーヴォー」のように生産者にフォーカスしたイベントを開催することで、少しでもその垣根を崩せればと思っていますし、そこから農業に興味を持つ若者が増えて、ゆくゆくは穀物自給率アップに貢献できたら………なんて言葉にすると立派な感じですが、結局は自分が美味しいパンを食べ続けたいっていうのがいちばんの理由なんですけどね(笑)。

藤乃木製パン店 練馬区富士見台2-19-19
03-3998-4084
営業時間:10:00~20:00
定休日:火曜

池田浩明Hiloaki Ikeda
1970年佐賀県生まれ。パンの研究所「パンラボ」主宰。ライター、カメラマン、エディターとして、独自の取材方法を用いてベーカリー業界を中心に活躍。日々更新されるブログ(http://panlabo.jugem.jp/)でもパンの実験と脱線を繰り返している。著書に『パンラボ』(白夜書房)、『サッカロマイセスセレビシエ』(ガイドワークス)、『日本全国パンの聖地を旅するパン欲』(世界文化社)など。

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