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ヒトトヒトサラ

あの店のヒトサラ。
ヒトサラをつくったヒト。
ヒトを支えるヒトビト。
食にまつわるドラマを伝える、味の楽園探訪紀。

ヒトトヒトサラ02 / TEXT+PHOTO:嗜好品LAB ILLUST:山口洋佑 / 2014.06.11 新宿区四ッ谷「おでんやden」佐藤真一さんの「くず豆腐」

四ッ谷駅前の居酒屋街、しんみち通りを入って30秒ほどの場所。細い階段を降りてゆくと、鼻から頬へと流れる出汁の香り。ドアを開ければそれはますます強くなり、大きな土鍋の蓋を開けたかのような安堵感に包まれる。眼鏡の曇りには注意が必要だが、すぐさま今晩は何を食べさせてくれるのかという期待感も押し寄せる。
おでんといえば全国各地にそれぞれの伝統や個性があるが、店主・佐藤真一さんの出汁には、東の定番ちくわぶがジッとした表情で出番を待ちながら、西の主力選手であるスジ肉が、オーダーとともに滑り込む。時期であれば牡蠣や筍。湯剥きされたプチトマトやカマンベール・チーズまでもが、「美味しければいいんでしょう?」という信念のもと、そこに参列する。
おでんやden、その台所は工房でありラボラトリー。カウンターに陣取れば、驚きの研究報告が待っている。

科学するおでん

 もともと何かを比較研究したり、少しずつ整えながら完成をめざしていくというのが好きなのかもしれないね。ここには開店の5時間前、13時に入って、まずは鰹と昆布で出汁を取るんだけど、先週とまったく同じ味が出るということはますないんですよ。今日のは鰹の風味も、昆布の色も強かったから、見た目も少し濃いでしょう? このまま火にかけて水分が蒸発すればさらに味は強くなるから、そこを見越して出汁を足したり、最後のお客さんが帰るまでにどんどん味を変えていくのがおでんのおもしろさでもあってね。(四角く仕切られたおでん鍋を見渡しながら)だから、愛着があるのはやっぱり大根。自分の子どもみたいなもんだね。皮を向いている瞬間、切っている瞬間、箸で触っている瞬間、そのすべてに喜びがあるし、ほかのタネの味を吸い込んで、めまぐるしいほどに味が変わっていくというのも、まさに子どもの成長を見守っているような感覚。隣に牡蠣が入る、ワカメが入る、もうそれだけでまったく違うものになる。その塩梅を自分でコントロールするのが楽しいんですよ。

もっとも早い時間に仕込まれる大根。「おでんだねには時間をかけて美味しくなるものとならないものがあるけど、これは閉店間際ぐらいまで浸かってても大丈夫。できれば最初と最後に食べ比べて欲しいですね」
箸の作法を試されるほどに柔らかいつみれ。手前は丸ごとの玉葱。いったん蒸したものにじっくりと出汁を吸い込ませる。皮と芯とで味の印象がまるで違う。

 半透明に煮込まれたに大根の美味しさはおでんの醍醐味だが、denの大根の美味さは別格だ。くたくたに柔らかくなった表面の繊維は、出汁を固形に留めておくための「容れ物」のようにも思え、それでいて逞しい土の香りも主張してくる。もちろん箸に力などまったくいらない……といえば、「つみれ」の柔らかさはその上をゆく。

 自分は実験好きなわりに筆無精で、ノートをとったりレシピを残したりはしないほうなんだけど、これはかなりやりましたね。つなぎに使う山芋の分量はもちろん、魚もありとあらゆるものを試してる。もちろんお客さんには出しませんけど、失敗作もいっぱいありましたよ。平目とか鰈なんかは駄目。いいのは秋刀魚や鯵、鰯、あとは真鯖といった青魚。今日のはちょっと高級魚で、いなだ。鰤の幼魚ですね。勘八とか縞鯵もよかったけど、さすがにちょっともったいないかな(笑)。……そういえば、うちの定番「くず豆腐」も、最初は自家製豆腐のキットを買ってくるところから始めたんですよ。ようやく自分の思う味になってくれたのは、店を始めて6~7年は経った頃ですね。

ひと口食べればなくなるのが惜しくなる、驚きの「くず豆腐」。日本酒、そしてわさびとのバランスを見ながら、少しずつ食べ崩してゆくのが楽しい。
オーダーとともに厨房から登場した牛スジ肉。串には刺さっておらず、この量が皿の上に豪快に盛られる。

 この「くず豆腐」こそが今回の「ヒトサラ」。ほとんどの常連がオーダーするという、denのつまみの定番だ。これも大根やつみれと同様、「よくぞ自重に潰されずにいてくれた!」と感動させられるほどのムース感。淡く透明な豆の甘みに、わさびの清涼感がキリリと立っている。

 大豆を固めるには、寒天か葛粉を使うわけだけど、寒天の場合は弾力が強すぎて、どうしてもお酒に合うものにならない。味は悪くないんだけど、食べている間、ずっと和菓子のイメージが消えてくれないというかね。その点、葛粉の場合はいい感じに空気も入ってくれるし、それがこの食感につながる。すべての材料の割合が本当に微妙だから、当初は皿に広がってしまうぐらい柔らかいものができちゃったりもして、ずいぶんと苦労しましたね。今となっては「自家製豆腐」なんて珍しくもなんともないじゃないですか。本を読めばやる前からできた気になるだろうし、いろんな人がレシピにしてくれている。でも、自分でやってみないと絶対にわからない部分にこそ、素材の真価があると思うんですよね。文字にするとみんな同じかもしれないけれど、この世界に「同じものはひとつとしてない」というのがわかるんです。

とにかく夏が暇!

denのおでん鍋がいっぱいになることはない。半数以上のたねは厨房で仕込まれ、それらは最後に出汁で煮込まれる。「究極を言えば、すべてのたねを別々の小鍋で煮込むってことになりますけど、そこまでやっちゃうとおでんではないですからね。たぶん自分もつくってておもしろくないんじゃないかな(笑)」

 勘や感性に流れがちな料理において、この研究量。しかしそこには「おでん屋ならではの悲しき特権」というものが、大きく関係しているのだとか。

 とにかく夏が暇! これに尽きますね。誰もおでんなんか食べたくないでしょう? うちも冬から春にかけてが混んでいて、そこからはおもしろいようにお客さんが減っていく。だから自分はその時間を実験の時間に割けるんですよ。それはおでん屋の特権であり……宿命ですよね。

 事実、おでんやdenの夏期休暇はとても長い。おでんの天敵=太陽がもっとも強くなる8月の31日間を、毎年丸々休まれている。

 そのうちの1週間はここに篭って出汁の微調整。改めていろんな昆布を食べてみたり、たねを入れる時間や場所(位置)を変えてみたり。あとは旅行ですね。11ヵ月もみっちりと働いたぶん、思い切り美味しいものを食べに出る。よかったのはシチリア島かな。友だちと現地集合して、電車とか夜行フェリーを乗り継いで、現地の人が食べるものと同じものを食べ歩いて。ムール貝もよかったけど、雲丹はそれ以上。小ぶりのものが2~30個は出てきて、殻の割れ目にパンを突っ込んで、海水といっしょに食べる。あれは忘れられない。そういう経験を新しいメニューに活かしたり……っていうのはそんなにないんだけど(笑)、まぁ、精神の問題ですよね。また新たな気持ちで自分の味に取り組めるというか。旅行してこのカウンターに戻ってくると、暗くてびっくりしますよ。俺はこんなに暗いところで働いてたのかって(笑)。
 ただ、自分はそれ以上の休みが欲しいとは思わないんですよね。おでんに関わっている時間が好きだし、もっと大袈裟に言えば、僕はこのカウンターに立つことで世間や時代に関わっていたいというかね。
 ……よく、すごい老舗のお店なんかで「うちは先代の時代から50年間味を変えてません」みたいなところってあるじゃないですか。あれってちょっと違うと思いません? 味っていうのは時代というか、それを食べてくれる新しいお客さんといっしょにマイナー・チェンジを繰り返していくのが当然のものだと思うんですよ。僕はこのまま100歳まで店を続けたいと思っているけど、新しいお客さんに揉まれながら、この味がどう変わっていくのか、それが自分でも楽しみなんですよね。40年後はひょっとして「出汁なんか不純だ! 水がいちばん美味い! 若者は去れ!」みたいなことになってるかもしれないけど(笑)。

地下で始めて本当によかった

 そんな将来に笑いながら「おでんこそは天職」と言い切る佐藤さんだが、80年代はサラリーマンをやっていた。おでんやdenのオープンは平成4年。当時はまだバブルの余韻を引きずり、「こんな狭い店でも家賃は随分と高かった」という。

 正直な話、あの頃は迷走してましたね。このまま会社に属している自分の姿というのがどんどん想像できなくなって、なんとか「やれること」を選んで始めたというのがこの店だった。おでんのことも甘く見てました。だから最初は味だって定まらないし、まったくお客さんもきてくれなかった。でも、幸か不幸か、この店は地下にあって目立たなかったから、数少ない常連さんに意見してもらいながら、ゆっくりと自分の味を固めることができたんです。だから、もしこの店が路面にあって、大きく「おでん屋がオープンしました!」となっていたら、すぐに潰れていたでしょうね。「あそこは駄目だ」って噂が立ってね。シンプルなぶん、手をかければかけただけ味に反映されるのがおでんという料理。そこに気づいてからは、どっぷりとハマりましたね。だんだんと家に帰るのも面倒になって、このカウンターに簡易ベッドを渡して寝泊まりしていた時代もありましたよ(笑)。

佐藤真一さん。作務衣を羽織るのは開店10分前。「おでんは仕込みこそが本番なところがあるけれど、やっぱりこれを着るともうひとつスイッチが入りますね」

「意見してくれる常連さん」考案のメニューもある。それがカマンベール・チーズのおでん。出汁にくぐらせ、小鉢で提供されるそれは、この日もっとも鮮烈な塩気を感じさせながらも、するりと喉に落ちてゆく。複雑な熟成香が溶け出した残りの出汁をチビチビと味わうのも楽しみのひとつだ。

 チーズも国産からフランス産からいろいろ試しましたけど、本場のだと香りが強すぎて(出汁が)負けちゃうんですよ。鰹や昆布と相性がいいのはやっぱり国産。日本酒も進みますよね。ぬる燗と合わせてもらうとさらに風味が増すと思います。「いい酒はどんな温度で飲んでもいい酒」というのが僕の持論。全国の地酒を試しながら、ここに定番として残った酒というのは、いつまでも飲み飽きない強さと華やかさがあると思いますよ。

denならでは楽しみ「変わり種」のメニュー。厚切りの牛タンや揚げ餅など、ビール派にもうれしい構成。
締めは出汁茶漬け、もしくはこの「らい檬ラーメン」。どちらも出汁の旨味をゴクリと味わえる逸品。「亀戸のほうに〈りんすず食堂〉というレモン・ラーメンで有名なお店があって、そこのメニューがヒントになってます。最初は甘みのあるメイヤー・レモンを使ってたんだけど、それが手に入らない日があって、試しにレモンとライムでやってみたら、これが旨かった。2種類の酸味を好みで加減してもらえるのもいいですね」

 出羽桜の大吟醸である雪漫々(ゆきまんまん)を、あえてぬる燗で、というのも佐藤さんのお気に入り。「ゆるゆると雪を溶かす」という雅(みやび)なイメージに、ますます酔いが回る。

 日本酒といえば、最近すごい趣味を見つけて。僕、ついに田んぼを始めたんですよ! 九十九里の匝瑳市って場所の区画を借りてね。これがもう楽しくてしかたがない。ずいぶん前から土いじりへの憧れはあったけど、お店だってあるし、できても家庭菜園ぐらいかなって思ってましたからね。また、うまい具合に収穫の季節がうちの「暇」と重なってくれてるんです(笑)。ついこないだも女将といっしょに開墾しにいったんですけど、そこを管理している人と世間話をしていたら、うちの廃棄物である鰹節の出汁かすも田んぼに蒔けばいいってことを教えられてね。前々から「この店が田舎にあったらゴミなんて出ないのにな」って思っていたから、そこでまた大感動しちゃって。その田んぼはIT関係の人とか弁護士さんや獣医さんなんかも借りてるらしいんだけど、大量の鰹節を蒔けるのはさすがにうちだけだし(笑)、ゆくゆくは自分の米で日本酒をつくってみたいと思ってますね。

毒キノコだって食べてみた

 そんな佐藤さんの笑顔を見ていると、この人は食以外の趣味を持たない生粋の食いしん坊であり、飲み助なんだということが伝わってくる。

 まさにそう。食以外の趣味はまったくないですね。田んぼの前からハマっているのは、毒きのこ。あれは本当に美味しい。めちゃくちゃ甘くてね。天然のきのこっていうのは市販のものとはまるで違って、ビニール袋に20分も入れておくと、浅漬けかと思うほどに水分が出るんですよ。僕はそのジュースがもったいないから、携帯用のコンロを持参して、採ったその場で天婦羅にしちゃう。食べてから15分ぐらいかな、苦しみ出すのは(笑)。あーきたきたきたきたムカムカする~って。でも、僕の好きな毒キノコに関しては、死亡例はないですからね。地元の人は天日干しにして毒抜きしてから食べるっていうけど、あれは毒が美味いんだと思うな。「甘い毒」ってあのことを言うんだと思う。あと、今年の夏は田んぼの虫とか雑草も食べてみたいと思ってますよ。そこまでやってこそ命の邂逅というかね。山菜の美味しさだって甘みと苦みが紙一重なところがあるじゃないですか。味つけさえ間違えなければ食べられないものなんてないと思うんですよ。

 これこそが冒頭にも書いた「美味しければいいんでしょう?」という信念。そこにはメジャーもマイナーもない。それを裏づけるように、佐藤さんはこうも続ける。

「俺のフレンチ」とか「俺のステーキ」って流行ってるでしょ。こないだ銀座を歩いてたら「俺のおでん」ってのを見つけてね(笑)。もちろん引き寄せられるようにして入りましたよ! やっぱり飲食に携わる以上、マイナーなものが偉いって風潮はどうかと思うし、ひとり篭って世間ズレしていくのも恐いですからね。正月休みには「すしざんまい」の鮪だって食べに行きましたよ(笑)。初値でね。女将と3貫ずつね。ミーハーかもしれないけど、あの赤身の美味しさの前ではそんなことどうでもいいんです。そう、美味しければそれでいいんですよ。

おでんやden 東京都新宿区四谷1-8 中川ビル B1
03-5379-8573
営業時間:18:00~25:00
定休日:土・日曜日/祝日/年末年始/8月1日~8月31日

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