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ヒトトヒトサラ

あの店のヒトサラ。
ヒトサラをつくったヒト。
ヒトを支えるヒトビト。
食にまつわるドラマを伝える、味の楽園探訪紀。

ヒトトヒトサラ39 / TEXT+PHOTO:嗜好品LAB ILLUST:山口洋佑 2016.08.31 目黒区東山「晩酌 銀紋」まゆぼん・あこさんの「キスフライ」

毎晩のように街を歩き、たくさんの銘店や名酒場、その空気や磁場に触れれば触れるほど、カウンターの向こう側に立ってみたい…小さくとも自分なりの城を築きたい…そう思うのは至極自然なことだと思う。むしろこれは、すべての酒飲みの秘めたる願望なのだと書いてしまってもいいとすら思う。料理が好きで、その味が引き寄せる笑顔や縁を知る人間であれば、なおさらのことだ。
池尻大橋と中目黒のちょうど中間に位置する「晩酌 銀紋」は、まさにそんな飲み仲間であり料理好きであり、常連には「まゆぼん」「あこさん」と呼ばれ愛されるおふたりの10年計画が、「赤ちょうちん」というテーマにて結晶した、憩いの空間だ。「最初から赤ちょうちんと決めていました」と語るその首元には、温かな家庭料理のイメージに直結する綿エプロンの紐がかかり、小上がりに置かれた扇風機はゆっくりと首を振り、シャツの裾を揺らす。暖簾は洗いざらしの白である。
少なく見積もっても10年はこの界隈の生活に溶け込んだ古株を思わせつつ、実はまだまだ新参。おふたりはなぜこのような「最初から老舗」をスタートすることができたのか。話を聞いてきました。

赤ちょうちん巡りから始まった、理想の空間。「初めて競馬新聞片手のお客さんがいらしたときは感動しました!

まゆぼん(文中は敬称略) あこさん(文中は敬称略) 鰻の香ばしさを楽しんだ後は、小鉢の底の山芋をずるり。この日のお通し「山芋そうめん」 見るからに自家製! これまた酒盗!の「ぬか漬け」

まゆぼん この店はわたしたちの「赤ちょうちん巡り」から始まっているんです。もともとうちの親が赤坂の料亭にいて、とんでもない食い道楽だったので、小さな頃からいろんなお店に連れていってもらっていたんですけど、わたしはどんな高級なお店よりも赤ちょうちんの雰囲気に惹かれたし、落ち着いたんですね。自分でお酒が飲めるようになってからも、趣味は読書と音楽と赤ちょうちん(笑)。主な稼ぎはほとんど居酒屋に消えているぐらいです。……でも、実際の自分は銀座のお店に勤めていたんです。親の影響で早くから料理をすることにも慣れ親しんでいたのに、そこには乾きモノとかフルーツしかない。接客を続けている限りは決して厨房には入れない。それがだんだんとストレスになっていって、ある日の飲み会で、ふとあこさんに「いつか自分たちならではの赤ちょうちんをやってみたいね」という話をしてみたんです。

あこさん わたしの親も日本酒の仕事をしていたので、まゆぼんとは話が合いましたね。この店の構想は10年ぐらいになります。その当時から、だんだんと赤ちょうちんに対する目線も変わってきて、好きなお店はすべて研究対象になったというか、まゆぼんと「このお店のツボはあそこだよね」「わたしたちだったらここをこうするよね」みたいな話を繰り返して、ようやく2年ほど前に物件探しを始めることができたんです。開店資金はまゆぼんと半々でかき集めて、物件の名義はわたし、経営者はまゆぼん。わたしたちは同じだけの責任を請け負った「ダブル女将」なんですよ。

まゆぼん 物件探しは本当に大変でしたね。ネットの「居抜き専門サイト」に電話をかけまくるんですけど、いいところはバンバン取られちゃう。一時期は「絶対に無理!」ってところまで追い詰められたんですけど、そんな中、すごく良心的な不動産屋さんと知り合うことができて、新しい物件が出るとすぐに教えてもらえるようになって。そのたびにあこさんと内覧にいって、ああでもないこうでもないと。でも、そうやって物件を探している間にも、わたしは自分が「最高!」と思えるお店にあこさんを連れ回すものだから、内外装のイメージやメニュー構成なんかはどんどん固まっていくんです。当時は「これでもしオープンできなかったら……」みたいな不安との戦いでしたね。

ギュッと噛みしめるほどに旨さの滲み出る「自家製煮豚」。絶妙の厚み、そしてこのボリュームで400円!
煮豚は3日に1回仕込みます。当初は和辛子をつけていたんですけど、それをマスタードに変更したのはお客さんからの提案ですね。……ホント、酒飲みの人って辛子とか薬味が大好きですよね。〈冷やし中華を食べてるんじゃない、辛子を食べてるんだ〉とか〈焼きそばを食べてるんじゃない、紅生姜を食べてるんだ〉とか(笑)、わたしにもそんな知り合いがたくさんいますね」とまゆぼん。

 メニューの並びや椅子の間隔、無駄口を叩かないホワイトボードなど、店内を見渡せばすでに答えは出ているのだが、あえておふたりの「理想の物件/雰囲気」を言葉にしてもらったところ、「赤ちょうちんと白暖簾が自然に馴染む昔ながらの引き戸があって、猫背に優しいカウンターがあること。これは譲れませんでした」とのこと。また、期せずしてこの質問は、おふたりならではの「赤ちょうちん観」を訊くことにもなった。

まゆぼん 赤ちょうちんの魅力というのは、お客さんを分け隔てしないことだと思います。赤ちょうちん自体が「そんなに高級なお店じゃありませんよ」ということを代弁してくれるし、だからこそ、いろんな人を受け入れられると思うんです。もちろん開店当初は宣伝もしていないし、お店の外にメニューを置くまで手が回らなかったこともあって、きてくれるのは友だちばかりなんです。でも、今では地元の人が、「そこのコンビニまできたんだけど赤ちょうちんが見えたから引き寄せられちゃった」と入ってきてくださるし、だったらこのまま声高に宣伝するようなことをしなくてもいいんじゃないかと思っていて。

あこさん 今はSNSなんかもありますし、口コミでだんだんとお客さんが増えていった感じですね。そういえば、「競馬さん」が初めていらしたときは感動しましたね。それまで友だちだけだったのが、そのお客さんはフラッと入ってくるなり競馬新聞を広げて、お酒を飲みながら予想をし始めた。その瞬間、まゆぼんと顔を見合わせて、心の中でガッツポーズです(笑)。

まゆぼん ついに認識してもらった! この人待ってた! 最後のピースが揃った!って(笑)。あのファースト・インパクトは今でも忘れられませんね。今日も日曜日だし、予想が当たったら飲みにきてくださるんじゃないかな(事実、開店直後にご来店! 気さくかつ寡黙な「これぞ飲ん兵衛!」であった)。気軽にフラッと寄ってくれて、ときにわたしたちを笑わせてくれる友だちと、ちょっとした緊張感が気持ちのいい新規のお客さん。彼らが混ざって飲んでくれているというのもすごくいい雰囲気で、そんなときは、やってよかった! 理想の店に近づきつつある! と爽快な気持ちになれます。やっぱり開店当初から助けてくれている友だちにはすごく感謝していますね。

夏場は扇風機が目にも背中にも涼しい。それが置かれた小上がりは江戸時代の寸法のもの。「昔の人は身体が小さかったんですね。このサイズだと、ふたり並んでというのはちょっと厳しいですし、3名以上のお客さんになると、たいていどなたかは片足を床に置きながら飲むことになっちゃうんですよね」とまゆぼん。ちなみに店内の蛍光灯は「展覧会の会場などにも使われているもの」に変更したとのことで、目に刺さることなく料理の輪郭を引き立ててくれる。

一番出汁と米油、そしてゲランド塩。銀紋の味を支える「当たり前のものを丁寧に」

 そんな想いを原動力に開店を迎えた「銀紋」だが、ここには凡百の赤ちょうちんをいい意味で振り切るものがある。それは、「顔出しはちょっと……」が悔やまれるほどに美しいダブル女将と家庭的なエプロンが醸し出すギャップ……いや、それもそうなのだが、雰囲気だけでは取材は成り立たず、名店とはいえない。そろそろこの店の本領である酒、そして料理のことについても訊いていくことにしよう。

あこさん お酒はひと通り置くようにしていますが、やっぱりうちの売りはお店の屋号にもなっている秋田の地酒「銀紋」ですね。わたしとまゆぼんの父親が偶然秋田の出身で、わたしの親もこのお酒に関わっていたことがあったので、この銘柄を置くことはすぐに決まりました。「銀紋」はわたしたちの「キャンプ酒」としても定番だったんですよ(笑)。

 酒の国・秋田を代表する酒蔵である両関酒造が「秋田酒こまち」を使用した「銀紋」は、丸い甘みと飲み飽きることのない後味を誇る(地元では)定番の食中酒であり、また、これを100mm/350円という手頃な量から味わえるのもこの店の魅力。赤ちょうちんを愛する酒飲みであれば、グラスに残った最後の20mmを干す瞬間から、おかわりをお願いするまでの流れや所作にこそ、呑みのテンションが凝縮されていることを知るものだが、まさに「銀紋の銀紋」は、その醍醐味を思う存分に味わわせてくれる。

まゆぼん そういってもらえるのはすごくうれしいです! 1合だとなかなかおかわりできないですもんね。あと、手酌派のお客さまには1合瓶で提供している「両関 本醸造」もあります。これはキンキンに冷やして飲むことを前提に仕込まれたお酒で、ロックにしたりライムを絞って飲むのもおすすめなんですよ。

あこさん うちはサワーに使うシロップなんかも手づくりなんです。ふたりの役割分担として、料理の8割ぐらいはまゆぼんのレシピで、仕込みはふたりでやってるんですけど、そのほかにわたしはサワーに使う梅やジンジャーや赤ジソのシロップも担当しています。あと、さっきお出ししたぬか漬けのぬか床もわたしが育てたものなんですよ。居酒屋はぬか漬けの美味しさでそのお店の気合いがわかるといってもいいぐらいだと思うので、うちも絶対に美味しいものを出したかったんです。そもそも赤ちょうちんに「めちゃくちゃ美味しいもの」を求めるお客さんって少ないと思うんですね。むしろ、美味しすぎることのないもの、ちょうどいいもの、シンプルだけど気配りのあるものというのが大切。当たり前のものを丁寧に、自分や家族が食べても大丈夫なものだけを出していきたいと思っています。

まゆぼん うちの料理のベースになっているのは、出汁と油とお塩なんです。出汁は昆布と鰹節でとった一番出汁で、余計な圧を加えずに、澄んだところだけを使うようにしています。うちは本当に「お出汁命」のメニューが多いんですよ。油は胸焼けしない米油です。わたしは市販のサラダ油というのが苦手で、ちょっと値段は張りますけど、これも譲れませんね。お塩はフランスのブルターニュ地方で採れるゲランド塩。職人たちが塩田でつくっているもので、塩自体にすごく旨みがあって、デザートやチョコレートにも使われているものですね。

夏野菜の揚げびたし。素揚げした大ぶりの野菜を一番出汁の湖に沈めた、この日の季節メニューの中でもとりわけのヒトサラ。とにかく雄弁な出汁の旨さ。「ここが自宅なら冷麦か冷や飯にぶっかけて食ってるね!」とは取材班の本音である。

「美味しすぎることのない」という言葉は明らかな謙遜である。思えばお通しの「山芋そうめん」ひとつをとってみても、確かな季節感を味わわせてくれる「うざく」風のアレンジといい、それを包み込む出汁の純度といい、赤ちょうちんのレベルではなかったのだから。 取材を続けるうちに、開店の時間が迫ってきた。ストロボやシャッター音がこの店の空気を損ねることのないよう、また、心地よいカウンターのやりとりを独占してしまうことのないよう、以下の料理は一気に並べていただいた。(カッコ内の発言はすべてまゆぼんのもの)

天使のエビ塩焼。最近は出す店も増えましたよね。あこさんは親族が送ってくれたものを食べたことがあって、わたしもふだんの食べ歩きで出会っていたので、ふたりして〈あれ美味しいよね!〉と盛り上がったんです。パリッとした頭の香ばしさと味噌の風味を同時に味わえる〈ひと口目〉がなんといっても最高ですよね。うちのグリラーはこのエビのためにあるようなものなんですよ(笑)」
手羽先しょっつる焼き。「これはわたしのオリジナルです。父の故郷である秋田の味を自分流にアレンジできないかなと思って、ちょうどタイ料理のナンプラー漬けの要領で、手羽先を漬けてみたんです。仕込みの後は、もう焼くだけです。それだけでこんなに綺麗な照りが出るんですよ」
酔いの中盤に挟むと効果覿面の「豚バラ串(スパイス)」。「最初はその日のスペシャリテとしてクミンを効かせたラム串を出していたんですけど、すごく評判がよかったので、なんとか定番にできないかと豚バラに変えてみたら、これもすごく美味しくて。クミンは胃にも優しいし、酒飲みの味方。わたしは自宅でも常備するようにしていますね」
中濃にするか…ウスターで攻めるか…いやいやまずはそのままか……と悩ましい「手作りコロッケ」。「お店用に挽肉の分量を増やしたりはしていますけど、これはわたしが高校生のときからつくっていたレシピそのままの味です。お肉以外は玉ねぎと男爵イモだけの、本当にシンプルなコロッケなんですけど、これも米油がポイントですね。かなり大きめですけど、ひとりでペロッと平らげてくれるお客さんも多いです」
鉄壁の看板メニューである「にらつくね」を塩で。優しくほぐれる粗挽き肉の旨さ、焦がしたニラの香ばしさ、ミネラル感たっぷりのゲランド塩をひと口で! 「ニラと豚肉というのも疲労回復にもってこいの組み合わせなんです。酒のつまみがお客さんを元気にできたら、そんなに素敵なことはないですよね」

 ずらりと並んだ愛情あふれるツマミの数々を冷めないうちに、片っぱしから頬張る取材班。そこから漏れる歓喜の声に、「ありがとうございます!」「〈美味しい〉いただきました!」と笑顔になるおふたりの表情には、天職の後光が射している。中でもこの日最大の「美味しい!」をブツけてしまったのが、今回のヒトサラ、「キスフライ」だ。

まゆぼん これはぜひタルタル・マニアの人に食べてもらいたいですね。キスは米油でカラッと揚げて、そこに自家製のタルタルを添えているんですが、これがすごく評判なんですよ。マヨネーズに、きゅうり、玉ねぎ、固茹での玉子、そこにレモンを絞っただけの素朴なものなんですけど、うちの揚げ物との相性がすごくいいんです。魚の仕入れも開店当初は「どのぐらいの広さの店? 素人には卸さないよ」って、けんもほろろにされていたんですけど、すごくよくしてくださる問屋さんと出会うことができて、季節ごとのいいものを仕入れることができていますね。

サクッ、フワッ、そしてねっとりのキスフライ。舌や歯すべてを使って旨みを凝縮・ペースト化、一気に喉へと流し込む、揚げ物の快感!
「タルタルって夢だよね…」「この旨さに箸はいらん!」と人それぞれの賛辞が飛び交う。

「気持ちのいいルール」を生み出す音楽の連なり。BGMに込められた、「赤ちょうちんの本質」とは?

 ここで店内BGMが止まり、すぐさまCDRをかけ替えるまゆぼん。赤ちょうちんの平均値を大きく超えた「つまみ」の充実に関しては紹介したが、もうひとつ、店内を満たす音楽の連なりにも、うれしい意外性が潜んでいる。友人のミュージシャンらが選曲したという、BGMを超えたBGM──そこにはアンビエントやソフト・サイケ、流れるようなダンス・ミュージックまでが含まれる──は、杯を重ねるごとに心に忍び込み、「おかわり」の声を集める。「なんだよ音楽の話かよ」と目を止めることなかれ。実はこんなところにも、おふたりの赤ちょうちんに対する想いが込められているのだ。

まゆぼん いい赤ちょうちんって、必ず店主の好きなBGMがかかっているものですよね。それは演歌の有線かもしれないし、ラジオの野球中継かもしれないし、テレビが聞こえるか聞こえないかの音量でかかっているだけかもしれませんが、だからといって、わたしたちがそれをそのまま真似してしまったら、自分たちの店でなくなってしまうと思うんですね。

それはいわば、コスプレ的な。

まゆぼん そうですそうです! コスプレになるのが本当に嫌なんです。わたしたちがエプロンをしているのは、よく飲みにいく世田谷駅の赤ちょうちん「酒の高橋」──そこもお母さんがふたりでやっている理想的なお店なんです!──がモデルになっていたりするんですけど、こと音楽に関しては「店主の好み」にこだわっています。そこを曲げてまで演歌をかけるというのは、かえって赤ちょうちんの本質からは離れてしまうと思うんですね。うちのBGMは友だちのミュージシャンやラジオ・ディレクター、大好きなDJの方に選曲してもらった「銀紋ミックス」で、わたしたちにとっての演歌であり野球中継というのがこれに当たるんです。

あこさん もともとわたしたちが出会えたのも音楽が縁。自分たちの好きな曲を流すというのは自然なことでしたね。居酒屋、とくに赤ちょうちんというのは、誰でも受け入れるようでいて、実は暗黙のルールが多い世界だと思うんです。それは最低限、ほかのお客さんに迷惑をかけずに飲むとか、そういう部分に集約されると思うんですけど、そんなルールが確立されるのも、店主が店主らしくあればこそだと思うんですね。だから、もしうちのBGMがカッコとかポーズだけの演歌だったとしたら、どこかに無理が出て、それを見抜くお客さんもいるだろうし、気持ちのいいルールというのは生まれなかったと思うんです。

まゆぼん もちろん理想や思い入れだけではお店はできないしですし、意外と立ちっぱなしの時間が長いなぁ、とか、コロッケの仕込みが大変だなぁ、みたいなことはありますけど、それもまったく苦労だとは感じていませんね。むしろ最近は、ようやく「カッコいい先輩たちの土俵に上がれた」という実感があるし、それがうれしくてしかたがないんです。こうしてあこさんとダブル女将でいられることが、本当に幸せなことに思えるんですよ。

晩酌 銀紋 東京都目黒区東山1-31-6
080-5951-4019
営業時間:18:00~24:00
定休日:水曜日

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