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SIDE ORDERS〜サイドオーダーズ

グラスを傾けつつ嗜みたい、酒香るエッセイにして、ヒトとヒトサラ流のカルチャー・ガイド。ミュージシャンや小説家、BARの店主や映画人。街の粋人たちに「読むヒトサラ」をお願いしました。

サイドオーダーズ22 / TEXT:植本一子 PHOTO:嗜好品LAB / 2016.03.31 東京の味──植本一子

 実家を出て13年になる。
 初めて暮らした街は、多摩川を越えたところにあった。高校を卒業してすぐ、写真の勉強をするため、渋谷にある専門学校の入学を控えていた。ぼんやりと、有名な下北沢あたりに住みたいと考えていたわたしにとって、東京の家賃というのは想像を超えるものだった。「その予算では、とてもじゃないけど下北には住めませんよ」と、渋谷の雑居ビルにある不動産屋で、ホストのような髪型のお兄さんに言われたわたしと母は、言われるがままにふたつの物件を見た。ひとつめは1階で、とにかく日当たりが悪かったことしか覚えていない。ふたつめは、まだ住んでいる人がいるので、同じマンションの違う部屋を見ることしかできなかったが、4階で東向きながらもベランダの前に遮るものがないということで、実際の部屋を見ずに契約を決めたのだった。広島からの日帰りで部屋を決めるという、無謀なことをしようとしていたわたしたちに、ほかの選択肢はなかった。

 そしてわたしは単身、東京へ。実際に見る部屋は、想像以上に狭く、5.5畳のフローリングにユニットバス、そして電気コンロがひとつ。やたらと広い田舎の実家で暮らしていたわたしにとって、それは愕然とする窮屈さだった。引っ越してしばらくは、この部屋の狭さが泣くほど嫌だった。
 しかし泣いていてもしかたがない。これからひとり、ここで暮らしていかなければならない。
 マンションは駅から徒歩15分と距離があったが、目の前に駐車場つきの大きなスーパーがあった。都内にはない規模のもので、いま思えば郊外らしい風景だが、その大きなスーパーの店構えは、田舎にも通じる馴染み深さを感じてホッとするものがあった。狭い部屋から出てそこに向かうだけで、心が晴れるような気がした。

 実家の頃は「嫁にいったときに困るけん、ちゃんと覚えんさい」と、母から料理を手伝わされることもあった。
 うちは毎日副菜が数品出されるような家で、田んぼと畑があり、季節にそってさまざまな野菜がつくられる。それを使って、おばあちゃんと母が手際よく調理をしていた。あれだけの手際を見ていたんだから、それなりに自分にもできるだろうと思っていたが、いざ自分ひとりで買い物となると、なにを買えばいいのかすらわからない。お金も限られている。そんなとき、わたしはよく、安い鶏の胸肉を買っていた。でも上手な調理方法がわからず、適当に野菜炒めにしたりして、どうしてこんなに鶏肉は硬いんだろう、と思っていた。肉の種類や部位によって、食感や味が変わることをまだわかっていなかったのだ。いま思うととても初々しい。
 実家暮らしの頃は、そういうことはいっさい気にも留めず、当たり前のように出される食事を食べていた。手伝いなんて、コロッケの衣をつけたり、白和えの木綿豆腐をすりこぎでつぶしたり、ぬたの酢味噌をつくったり、そんな断片的なことしかしてこなかった。そもそも、胸肉はうちで食べていたのだろうか? どんなふうに食べていたのだろう? まったく気にもとめていなかった。自分の料理のできなさと、実家の広々とした台所や温かい食事には大きな隔たりがあって、よくホームシックになった。寂しくなると、多摩川の橋の上から川を眺めにいった。スーパーも川も、田舎育ちのわたしにとって、拓けた場所がそばにあることは、とても救われることだった。

 とはいえそんなに狭い部屋ではストレスが溜まるいっぽうで、1年経たずにわたしは新しい部屋に引っ越した。前回に比べると、広い台所がついているのはとてもうれしかった。そして近所にある洋食屋でバイトをし始めた。
 その店は、有名なホテルの料理長をしていたお父さんが独立して始めた店で、奥さんであるお母さんとふたりでまわしていた。そこに毎日ホールのバイトがひとり入る。毎日、お店の大きな黒板にメニューがチョークで書かれ、知らない食べ物があればお母さんに尋ねた。お客さんはワインを頼む人が多く、どのメニューも本当に美味しそうで、いつかお金ができたらお客さんとして食べにきたいと思いながら働いていた。
 銀のフォークやナイフは専用のクリームで磨けばピカピカになること、「美豚」と呼ばれる美味しい豚がいること、ワインのコルクの抜きかた、デキャンタ、いろんなことをそこで知った。わたしは慣れないホールでたくさん失敗し、心が折れそうになることもたくさんあったが、毎日の仕事後の「まかない」が、その落ち込みを忘れるほどに美味しく、そしてうれしかったのを覚えている。
 それは毎日違っていて、まかない用に用意されているときもあれば、メニューにあるものを選ばせてくれることもあった。わたしは中でも「白菜のクリーム煮」を気に入って、お店のお父さんにレシピを訊いたほどだった。家に帰って何度かつくった覚えもあるが、いまではすっかりつくりかたを忘れてしまった。とにかく覚えているのは、黒い天板のカウンターと暖色の照明、店のお父さんとお母さんの横顔、そしてお腹いっぱいになった冬の寒い帰り道、そんなものだったりする。誰かが自分のためにつくってくれる食事は懐かしく、そして温かいものだった。

 バイトを辞めてずいぶん経つ。調べてみると、まだお店はあるようだ。
 久しぶりにいってみようかな。バイトのときに食べたかったもの頼んで、ワインを飲もう。東京のお父さんとお母さんに、会いにいこう。ふいに思い出したまかないの味を、これからも大事にしよう。いま、そう思っている。

SIDE ORDERS :
・ECD・植本一子『ホームシック 生活(2~3人分)』(2009)
・植本一子『働けECD わたしの育児混沌記』(2011)
・植本一子『かなわない』(2016)

植本一子Ichiko Uemoto
1984年広島県生まれ。2003年にキヤノン写真新世紀で荒木経惟氏より優秀賞を受賞。写真家としてのキャリアをスタートさせる。広告、雑誌、CDジャケット、PVなど幅広く活躍中。2013年より下北沢に自然光を使った写真館「天然スタジオ」を立ち上げ、一般家庭の記念撮影をライフワークとしている。著書に『働けECD~わたしの育児混沌記~』(ミュージック・マガジン)、『かなわない』(タバブックス)がある。

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