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SIDE ORDERS〜サイドオーダーズ

グラスを傾けつつ嗜みたい、酒香るエッセイにして、ヒトとヒトサラ流のカルチャー・ガイド。ミュージシャンや小説家、BARの店主や映画人。街の粋人たちに「読むヒトサラ」をお願いしました。

サイドオーダーズ35 / TEXT:藤本憲一 PHOTO:嗜好品LAB / 2017.4.30 「甘さ」と「苦さ」の言語ゲーム 嗜好品と対話力で、「いいね」の予定調和を破れるか?

1:卵焼きも、少女マンガも甘くない!

 男女問わず、芸人からプロレスラーまでスイーツの食べ歩きがブームとなり、「左党」「辛党」が死語となりつつある。そんな今だからこそ、「オレ(アタシ)って、甘い物が苦手で」と、ボソボソ、シブい声で言ってみたい気分が、どこかにある。
 たとえば、われわれ「関西人あるある」でいえば、「甘い卵焼きが苦手で」というセリフ。関東風ザ・厚焼き卵も、「それはそれ」で旨いのだが、そこは見栄を張りたいわけで。「卵焼きが甘いなんて、お菓子やあるまいし。薄口だし巻きでないと、うちらあかんねやわ~」と長嘆息してみせるのが、贅六スノッブ美学、いわゆる「いちびり」の「ええかっこしぃ」精神の発露だ。
 実際は子どものときに、「一口ちょうだい」儀式で「おまえんちの卵焼き、えらい甘いやん」「そうや! おいしいやろ?」といったやりとりがあり、関西でも卵焼きの甘辛が、家庭ごとに微妙に違うことは知っていた(ちなみに現行のコンビニで「甘くないだし巻き風」を販売しているのは関西地区だけとか)
 当方の転機は18歳。各都道府県から集まってきた、大阪大学のクラスメイトたちに、美食先進地KANSAIジモティを誇りたくて、「卵焼きは、薄口だし巻きで決まり!」と、スカして見せた。
 新入生歓迎コンパで「だし巻き」自慢をすれば、返す刀で、とんがったクラスメイト女子からは、「で、キミたち、マンガ読んでる?」との言葉。
「いや、マンガなんて、とっくに卒業したし」
「ちがうちがう、最近の少女マンガよ!」
「あの『りぼん』とか付録のついたやつ? 子ども向けやろ?」
「バカだな! 大学生なら『Lala』とか読みなよ!」
「……(大学生向けマンガって何???)」
 無知とはいえ、ときは1977(昭和52)年。「花の49年組」と呼ばれる20代後半のエースを先頭に、女性マンガ家たちが綺羅星のごとく、先鋭な作品群を『Lala』『Petit Flower』『Duo』など新媒体に発表していた、まさに「コミック少女革命」のピーク。旬の異文化に触れた少年フジモトは、コンパの席で覚えたビールやタバコ、猥雑な替え歌の味とともに、馴染めない少女マンガを飲み下すうち、その新しい世界にハマっていった。だし巻きでエバる程度の、赤面ものの初心さは、裏返せば、乾いた砂のように異文化を吸収する純朴さでもあった。
 35年後の今でも覚えているのが、甘辛の嗜好性の深刻さを、ほかならぬ「花の49年組」作品で学んだこと。山岸凉子「恐怖の甘い物一家」(『メデュウサ』所収/朝日ソノラマ/1982)という、自伝エッセイマンガが、それである。
 山岸さんの生まれ育った北海道は、沖縄と並ぶ砂糖の産地ながら、消費量は全国40位(2015総務省)と、いわゆる甘い物好き県ではない。にもかかわらず、彼女の周囲は、一家、親戚中が甘い物大好きで、卵焼きどころか、生卵や納豆、梅干、食パンにまで砂糖を大量にふりかけ、夕食はおはぎだったりする「甘い物一家」だった。
 甘い物が苦手だった山岸さんは、家族の特殊な嗜好性を相対化できず、幼少期から不適応に悩んだらしい。「甘い物は絶対旨い」という強制的価値観の中、「変わった偏食の子」と軽くネグレクトされつつ育ち、その後上京してマンガ家になるまで、自分の味覚の「平凡さ」と、わが家の味覚の「異常性」に気づかなかった。
 家族や隣人がゾンビになる、親しさと疎ましさの「親疎の遠近法の逆転」こそ、ホラーの醍醐味であるから、まさに家の味に馴染めない味覚の孤立は、恐怖体験だったのだ。家庭は、「おふくろの味」を刷り込まれる孵化器にもなれば、味覚を歪めるイデオロギーの牢獄ともなるのである。

2:甘い=旨い、甘い=sweetの等号は成立しない!

 哲学者ウィトゲンシュタインによれば、各人の私的感覚が同じか違うかは、原理的に知りようがない。感覚は共有されないが、唯一、同じ「言語ゲーム」に参加するメンバー同士が「赤い」「甘い」「痛い」などと発話する際の「判断の一致」によってのみ、意味を共有できる。だから、ある人が系統的に感覚語を誤解したり、あえて欺いていたり、赤緑色弱などの知覚異常があったとしても、発話による「判断の一致」がある限り、意味が通じてしまうため、誤解・詐称・異常は露見しにくい。
 ここでいう「言語ゲーム(ドイツ語〈Sprachspiel〉の訳語)」とは、ウィトゲンシュタイン哲学特有の概念で、世界中の言語を介するやりとりのひとつひとつを、そのつど参加者とルールが異なる「遊び」「演技」「パフォーマンス」(すべてドイツ語で〈Spiel〉)とみなす考え方である。
 互いの心や感覚が不可知な事態を、ウィトゲンシュタインは、「箱の中のカブトムシ」にたとえた。ひとつひとりが心中に一匹ずつカブトムシを飼っているとして、それが同じ対象を指しているかどうかは、原理的に知りえない。「カブトムシだ」と発話し合う「言語ゲーム」が、その場で成り立つ限り、誰かの箱にクワガタムシが入っていても、箱が空っぽであってもかまわない。
 そして、厳密には「言語ゲーム」が違えば、発話による「判断の一致」もずれてくる。「甘い=Sweet」という等号は必ずしも成立しない(翻訳の不確定性)し、山岸さんのように、「甘い=旨い」という等号も、成立しない(言語ゲーム参加者の嗜好の不確定性)。ましてや、言葉で判断するヒトと、言葉を使わない動物の間で、官能評価は共有しようがない。
 人類が「甘い」という言葉を発するのと似たケース(たとえば砂糖をなめた事態)は、サルにもネズミにも昆虫のアリにも起こりうるだろう。が、「キキッ」「チュー」「……」などと発声するだけで、「甘い」という発話による「判断の一致」がないため、その味が似ているかどうかは知りようがない。砂糖という物質に対する生理的・行動(心理)的反応の類似性は見られても、種を超えた互いの「共通の味覚」は、成り立ちがたい。

3:欲求・欲望・欲動の三段階と、科学の重ね書き

 ただ、サイエンスの世界では、種を超えて生理的事実や心理的事実が共通する前提で、実験や研究がなされている。
 栄養学者・伏木亨さん(龍谷大)によると、野生生物は常に飢餓に近い栄養不足状態にあり、ゆえに本能的に高エネルギーを求める嗜好性を持つ。それがネズミだろうが人類だろうが、糖と脂肪という高エネルギー物質を、「甘い=旨い」と感じて、貪欲に摂取しようとするため、必要以上に与えられると、「病みつき」となって欲求を制御できなくなる場合もあるとか。
 歴史的に見ると、調理学者・中澤弥子さん(長野県短大)によれば、江戸時代半ばまで、「甘い=旨い」は、味覚語として未分化で、区別なく使われたらしい(同様の概念未分化は、日本語の青と緑という色彩語にもあった。その名残りでいまだ緑信号は「青信号」と呼ばれている)
 かつて伝統的な五味といえば、酸・苦・甘・辛・鹹(塩)であった。が、現在は辛味は痛覚と見なされて五味から外れ、代わりに旨味に相当するグルタミン酸やイノシン酸に対する味覚受容体が見つかり、酸・苦・甘・旨・塩の五味が数え上げられ、英語でも「UMAMI」として定着している(そういえば2017年3月に東京青山にオープンした、アメリカ発外食チェーンは、その名も「UMAMIバーガー」だ)
 となると、つい最近まで全人類を含む全生物が、「甘い=旨い」と感じて糖や脂肪を追い求めることで、飢餓をサバイバルしてきたが、近年(日本なら江戸時代か)、しだいに栄養が足りてくるや、旨味の概念が甘味から分化し、新概念として定着した。その概念に沿ってヒトを実験測定すると、旨味関連の新しい生理的・心理的事実が「科学的に発見」されたことになる。
 サルやネズミ、アリの世界で旨味が見つかるかどうかはわからないが、「甘い」という言葉ありきで、「甘味受容体」が見つかり、「旨い」という言葉ありきで、「旨味受容体」が見つかったのであって、逆のプロセスは原理的にありえない。
 まず、ヒトに「甘い」という言語や概念がなければ、ネズミやサルで実験のしようもない。生理・心理に対して、必ず言語や概念が先立つのは、疑いない。哲学者・大森荘蔵さんによれば、精密な科学的言説といえども、日常言語の平易な語彙の甲羅に似せて上書き、重ね書きする形でしか、構築されえないのだ。
 たとえば、ダミ声をかつて文理共同で研究したとき、ついにダミ声を音響的に特定することはできなかった。ダミ声は話者と、その場の文脈しだいで発生する「文化的実在」であり、生理的・心理的実在ではなかったからだ。味覚も同様であって、うまく生理的な事実が言語や概念に沿って見つかる時もあるかもしれないが、それは重ね書きがうまくいったに過ぎないのだから。
 言語学者・丸山圭三郎さんは、欲望の構造を、生理的・心理的・文化(言語)的な三段階に分けて図式化して論じた。低次から高次へと順に、生理的な不足を求める「欲求(ブゾワン)」(アリやネズミにも共通)、心理的な希求としての「欲望(デジール)」(おそらくヒトと類人猿に共通)までは、蓼食う虫も好き好き、笹食うパンダも好き好き、の次元。さらに人間固有の高い次元として、生理・心理が満たされて、なお「何か」を求める文化(言語)的な「欲動(ピュルシオン)」を設定する、三段階説である。
 欲動とは、まさに「いらんものが欲しくなる」嗜好性だ。この「いらんのに、いるもの」、「欲動」の「あいまいな対象」こそが、酒・タバコ・茶・コーヒーなど伝統的嗜好品であり、これらは味覚受容体を超えた次元での「旨味」をもたらしてきた。

4:若者にとって、「食わず嫌いオールマイティ」なピザパ

 現代人なら、ライブ・コンサートや旅行、スマホいじりもまた、同様に嗜好品的な「欲動」体験といえるだろう。ただ気になるのは、若者の伝統的嗜好品ばなれである。
 当方の例でもわかるように、今から40年前当時の大学入学は、学問だけでなく、酒・タバコ・喫茶店・マンガ・音楽・映画・演劇など、多様な個性と異文化に出会う、通過儀礼であった。高校から大学、生徒(子ども)から学生(大人)、授業から講義へのジャンプは、かなり大きかった。
 ところが、大学側の手厚いケアやきめ細かい指導が行き届き、キャンパスの禁酒禁煙化が進むうち、学生の意識も変わってきた。「生徒」と自称し、講義を「授業」と呼ぶ点で、高校生活の延長と捉えられている面もあるのかもしれない。そのせいかどうか、たとえば20歳を過ぎた学生でさえも、飲酒機会が減っているようだ。
 次のデータは、2016年11月、21歳の女子大生、77人から回収したアンケート結果である(ここでいう宴席とは、外食だけでなく、家庭内の飲酒機会も含む)

A:酒が飲めて、宴席が好き──64.9%
B:酒が飲めないけど、宴席が好き──2.6%
C:酒が飲めるけど、宴席が嫌い──20.8%
D:酒が飲めず、宴席が嫌い──11.7%

 AとDは酒の好悪が、宴席の好き嫌いそのままだし、Bも飲めないけど酒の場は好きということだろう。問題は、5人に1人もいるC。「酒が飲めるけど、宴席が嫌い」という心理とは、何か。ひょっとして、意見の対立、嗜好の差異を「知りたくない」からではないか。
 酒宴と対照的に近年、一気に増加したのが、ピザパ(ピザパーティ)。大学のゼミ室などで、出前ピザを真ん中に鶏唐揚げや乾き物、スナック、ケーキが加わり、コーラ、ジュースなどソフトドリンクを紙コップでカンパイするノンアル宴会だ。
 甘いドリンク、とろけるチーズにむせかえるピザパには、アルコールもなければ、タバスコの投入もない。なぜなら、女子大生の苦手な味覚(大半、食わず嫌いだと思うが)は──

1:「生臭い」海鮮・魚介系
2:「臭い」「辛い」「苦い」「酸っぱい」香辛料系
3:アルコール
4:コーヒー
5:「しつこい」「脂っこい」牛肉・豚肉系

 ──となるから。結果的に、伝統的な五味のうち、使えるのが「甘・塩」の二味しか残らない中で、チーズ(若者なりの旨味?)好きが加わって、絶対に嫌いな人のいない、誰も味覚的に排除しない、いわば「食わず嫌いオールマイティ」ともいうべき「貴重な宴席キット」が、ピザパなのだ。
 酒宴が減るのと同時に、ゼミ合宿の安近短化も急速である。かつて景気も良かったせいで、わがゼミの夏合宿も、沖縄・北海道・韓国にまで足を伸ばしていた。こちらも、季節ごとのピザパ同様、旅程を企画するのは学生たちで、指導教員の意見は寸毫も入っていないのだが、しだいにその土地特有の「ふるさとの味」に対して批判票(たとえば「沖縄って海はキレイだけど、食べたいものがない!など」)が投じられがちになり、近畿圏の合宿パッケージで、朝夕食ともバイキング(ビュフェ)方式に変わってきた。たしかに、この方式だと、自分の好きな料理を好きなだけ取れるため、嫌いな食べ物を避けられる利点があり、食べ残しも出ない。
 まさに、ストレスなく、問題そのものを顕在化させずに、平和に明るく楽しく日常を送るため、現代っ子が編み出した実践会食戦術かと、感心しないではない。

5:「いいね」「かわいいね」「おいしいね」から、
  嗜好品の酸苦の冒険へ

 ただ、おじさん教師としては、こうした予定調和的に「みんなニコニコ、おいしいね」共有の、問題先送り的な「無風化」システムに、ひとこと言いたい気分がある。
 みんな若いんだから、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いでいいから、お互いにススメあって、苦手な味覚にチャレンジしてみようよ! 発展途上の味覚に、どんどん異質な刺激を与えて、味覚そのものを覚醒させていこうよ! と。
 当方を今の大学に呼んでくれた多田道太郎さんは、「生活美学をつきつめれば見栄である」と喝破した。同じくファッションを哲学に高めた鷲田清一さんは「おしゃれの基本は、ゆるい服を着ず、きつめの服を着ること」と語った。自分の美学を語るときには、背伸びを許される。背伸びのしすぎは愚かだが、多少の背伸びがないところには美意識の生まれようもない。
『いきの構造』を書いた九鬼周造は、粋の三要素として「媚態」「意気地」「諦念」を挙げたが、女子大生のピザパには「媚態」「諦念」は備わっていても、「意気地」がない。「意気地」を見せ合い、見栄を張り合い、「きつめの味」を身にまとうところから、オトナの嗜みを身につけていけるのではないか。
 そのために、初めから好き嫌いなしのピザパや、バイキング方式の安全圏に安住することなく、あらゆる機会に、好きだ嫌いだと対立意見をぶつけ合ってみよう。違う価値観の持ち主と、どこが違うのか、甲論乙駁を戦わせてみよう。それによって、山岸さんのように育った家や故郷の呪縛から、解放されるかもしれない。少年フジモトのように、生涯を左右するような少女マンガに出会えるかもしれない。
 たわいなく、多少、大人気なくとも、卵焼きの甘辛、おでんの甘辛、日本酒やビール、コーヒーやゴーヤの甘辛を、声に出して、言葉で侃々諤々と論じ合って、人類だけに許された「言語ゲーム」における「判断の不一致」をエンジョイしてみよう。
 異論を戦わせるうちに、しだいに「判断の一致」を見る頃、あなたには新しい味覚と、嗜好を本音で語れる友人が増えているかもしれない。ときに、そうした「判断の不一致」が「判断の一致」に変わるまでには、数ヶ月から数十年を要するかもしれないが……。
 それもまたよし。嗜好品をたしなむ、嗜好を語ることは大人だけの愉しみであり、まさに漢字の「嗜」という字は、碩学・白川静さんが教えるように、「老いて旨しとするもの」の謂だから。
 SNSを見ても、世は「いいね!」「おいしいね!」「かわいいね!」という自動的に全員一致の同調・受容・承認を求め、あらかじめモメないように、笑顔で異論を封殺しようとする、自縄自縛に陥っている。まったく、こんな笑顔は楽しくない。
「いいね!」「おいしいね!」「かわいいね!」の善意の押し付け三段活用を卒業し、予定調和を打ち破ろう。メリハリのある、対話力に満ちたやりとりを通じて、互いの好き嫌いを薦めあい、ときには押し付け合い、相手の嗜好を「こんなもん食えないよ」と全否定することはせず、まず口に入れて「う~む、微妙かなあ」と半ば否定しつつも「しいていえば乙な味だね」と半ば許容する、懐ひろく胸襟を開いた態度をとってみよう。苦手だった、酸っぱさも苦さも、えぐさも臭さも、最初は誰かから誰かへの片務的な「言語ゲーム」における強制的訓練に始まった。
「言語ゲーム」の真の共同性は、みんなで「いいね!」「おいしいね!」「かわいいね!」と頷き合う偽りの共同体ではない。それはつねに若年者に先立ち、ときに立ちはだかる、「人生そのものの先人たち」に抗う世代間の戦いでもあった。ただ、ひたすら箱の中のカブトムシを互いに「かわいいね」とほめ合うのでなく、真の旨味を求めて、どんどん先人と、友とバトってみよう。
 あなたが、ナマコやコノワタの伝統的な珍味にはじまり、ホンオフェやシュールストレミングをツマミに、世界の酒を片手に酒宴を愉しめる、冒険に旅立つ日を心から祈っています。

藤本憲一Kenichi Fujimoto
1958年、兵庫県西脇市生まれ。1983年、大阪大学大学院人間科学研究科博士前期課程修了後、1983~92年、編集・企画・広告・都市計画の現場を経て、1992年、武庫川女子大学講師。1998年、助教授・准教授を経て、2009年、武庫川女子大学生活環境学部情報メディア学科教授(同生活美学研究所員を併任)。単著として『ポケベル少女革命──メディア・フォークロア序説』(1997)、論文として「The Third-stage Paradigm from Girls Pager Revolution to Mobile Esthetics」(2005)、「コンビニ──人見知りどうしが集う給水所」(2013)、「音楽は嗜好品か? あるいは嗜好品は音楽たりうるか?」(2017)、編著として『テリトリー・マシン』(2003)。共著として鵜飼正樹・永井良和・藤本憲一編『戦後日本の大衆文化』(2000/中国簡体字版は鹈饲正树・永井良和・藤本宪一编『战后日本大众文化』2010)ほか多数。

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