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ヒトトヒトサラ

あの店のヒトサラ。
ヒトサラをつくったヒト。
ヒトを支えるヒトビト。
食にまつわるドラマを伝える、味の楽園探訪紀。

ヒトトヒトサラ44 / TEXT+PHOTO:小林のびる ILLUST:山口洋佑 2016.12.02 練馬区石神井町「和風スナック とき」時澤勝之助さんの「ステーキとひとくちおにぎり」

 東京23区屈指の豊かな自然に囲まれた遊水地を中心に、どこかのんびりとしたムードが漂う街、石神井公園。駅前の商店街を抜けた、およそ地元民しか通らない路地の奥に、ひっそりと、しかし圧倒的な存在感をもって建つひとつの飲食店がある。看板には、なんとも古風な書体で、「和風スナック とき」とある。
 スナックなのに和風? 「自家製ピザパイお土産承ります」とは? あまりにも謎が多すぎて、ふつうならば目に留まりつつも素通りしてしまいそうな外観。どうしても気になりその扉を開けてみれば、果たしてそこは、アメリカン・テイストと昭和の香りが同居する奇跡のユートピアだった!
 御年80歳になるマスターの時澤勝之助さんに、これまでの人生とお店の歴史、貴重なエピソードの数々を伺った。

少しでも居酒屋文化に興味のある者ならば、どうしたって引き戸を開けてみたくなる「とき」の外観。

「昭和31年に働き始めてから15年間、ずっと米軍関係の施設でコックをやってました」

 わたしが生まれたのは昭和11年で、今は80歳と2ヶ月。じいさんが「日本が戦争に勝つように」って「勝之助」ってつけてくれたそうです。ところが、そんな名前に反して、わたしは昭和31年から15年間、ずっと米軍関係の施設でコックをやっていたんです(笑)。

時澤勝之助さん

 最初に就職したのは王子にあった陸軍地図局で、そこに8年間。それから転勤になって、現在の西六本木──昔の霞町ですね──にある「スターズ・アンド・ストライプス」っていうアメリカの新聞社で働いてね、そこは3年半くらい。最後は朝霞の米軍基地の通信隊に勤めた。昭和46年にキャンプ座間のヘッドクォーター、つまり在日米陸軍司令官から感謝状を頂いたんですけど、ちょうどそれがリタイヤの年になりました。

若き日のマスター。活力にあふれたその眼差しは現在も変わらない。

 わたしの職場は要するに、在日米軍の基地の中のクラブ。食堂ですね。もちろん最初は掃除と皿洗いから始めてね。料理を食べるのは米軍の兵隊さん。やっぱり基地には厳しい規律がありますから、一般の兵隊が使う「メスホール」という大きな食堂、下士官クラスの人が使う「NCOクラブ」、ひと握りの将校たちが使う「オフィサーズ・クラブ」に分かれていたんですけど、わたしが入ったのはNCOクラブ。そこは誰もが入れる場所でもなく、お金を払って食べる高級なところなんですよ。

 バイタリティにあふれた口調で朗々と語られる時澤さんの昔話は、出だしから貴重すぎる歴史的事実のオンパレード。ネットや図書館で文献を紐解くのではなく、マスターの人生を彩るさまざまな体験談を聞きながら、戦後の日本におけるアメリカ文化に思いを馳せるのは、なんともロマンティックな体験だ。
 おっと、こんなよい話、飲まずに聞くのはもったいなさすぎる! まずは瓶ビールからいただくことにしよう。

こんがりと炙られたお通しの「油揚げ」と、スナック飲みの定番「レーズンバター」。看板の情報だけでは実感できなかったが、ここはまさに「和風スナック」!

 クラブのレシピは用意されていましたけど、基本は自分の目で見て覚えました。今の洋食屋みたいにチーフが親切に教えてくれるなんてことはなかったですね。食材はアメリカから横田基地へ届いたもので、そこに各クラブが仕入れにいくんです。
 出していたのはごくふつうの洋食ですよ。ポテトフライ、ステーキ、ハンバーグ・ステーキ、ハンバーグ・サンドのデラックスとか。アメリカの料理っていうのは日本やヨーロッパとは違って、わりと雑なんですよ。テーブルに塩やらスパイスがセットしてあって、それで自分で好みの味にするような。週替わりのスペシャル・ナイトというのもあって、メキシカン・ナイトだとラザニアとかタコスを出したり、ジャパニーズ・ナイトなら和食を出す。和食は兵隊さんたちにも喜ばれましたよ。豪華なショーも入ってね。あれは華やかだったなぁ……。

「商売というのは1日単位で考えちゃいけない。1年を通した平均でやるものなんです」

「とき」のオープンは46年前になります。仕事のリタイヤに向けてお店をつくったんだけど、「今辞めると退職金が半分になるぞ」と引き止められて、最初の2年はうちの女房とその妹にやってもらってました。看板に「和風スナック」って書いてあるのはその時代の名残りです。メニューも少なくて、お茶漬けとかおにぎりぐらいでね。だけどそれだとコックの腕もなまっちゃうから、たまに洋食もつくってお客さんに出してたらウケちゃってね。「マスター、またピザパイ焼いて」「グラタンつくってよ」なんて。

現在の「とき」のメニュー。ホワイトボードにつけられた動物マグネットがかわいい……。
「今日はいいブリが入ったよ。脂の乗った腹側とさっぱりした背側、どっちが好みだっけ?」と常連さんに語りかけるマスター。それでは我々も、と御相伴にあずかると、ほっこりフワフワ、肉厚の身が口の中でホロリとほどけて!

 わたしは群馬の出身なので、最初は高崎あたりにお店を出そうと考えてたんだけど、いくら大きな街とはいえ、やっぱり東京とは人口が違うので、商売は難しいということになった。そんなとき、女房がこの場所を見つけてきてくれた。だけど当時のわたしは板橋に住んでいたので、最初はよそもの扱いされてね。地元の人が通ってくれるようになったのは、オープンから2年くらい経ってからかな。やっぱりそれくらいの時間をかけないと定着しないんですかね。不思議なもんだけど。街の様子も今とは全然違いましたよ。このあたりは農家が多くて、当時は畑ばっかり。3軒隣じゃあ山羊と牛を飼ってたんだから(笑)。

ニコニコと話しながらも流れるような手さばきで料理をつくり続けるマスター。その包丁は完全に指先の延長と化している。

 開店からしばらくすると、「とき」の看板娘たちがご出勤。マスターの実娘マサヨさんを始めとする底抜けに明るい3人のキャラクターで、お店はいっそう華やかな雰囲気となり、マスターの笑顔もいっそう輝く。そう、ここからがこの店のゴールデンタイムだ。

マスターの実娘であるマサヨさん
マサヨさんの従姉妹のアッコさん(写真左)と勤続20年になるという従業員のマリさん(写真右)。マスターの手元を見守るマリさんの表情が優しい。

 お客さんも増え始め、ぐんぐん活気を増してゆく店内で、マスターは大忙し。「カキバター」がジューッ!と香ばしい音を立てたかと思えば、卵黄が乗せられた「焼きうどん」が、夕飯どきの胃袋に収まってゆく。それにしても「とき」の料理はどれもこれもがすごいボリュームで!

「マスターはコーンでもカキでも1缶とか1パックぜんぶ使っちゃうの。だからひとりだと食べきれないお客さんもいて、常連さんはみんなでシェアしてますよ」とマサヨさん。
棚に並ぶのは、見慣れた調味料の数々。しかしそれでもマスターがつくればマスターの味になってしまう。それこそが、もっとも優れた料理人の条件なのかもしれない。写真右はお孫さんからの手紙。「ままたちがうるさくてごめんなさい いわないで りゆう おこられる」。この家族の笑顔に包まれているからこその名文に笑い泣き!

(料理は)自分でも「多いかなぁ」って思うけど、だってそのほうが喜んでくれるでしょ? ちょっとずつ食材を残しといたってしょうがないし、だったらお客さんにサービスしたい。うちはスナックだけど夕飯を食べにきてくれる人というのがほとんどで、本気の商売というよりは、地元の人たちの憩いの場という感じでやってますんでね。逆に儲けに走っちゃったら、こんなに長くは続かないですよ。お勤めしてる人だとこうはいかないと思うけど、自分の店だから自分の裁量で自由にやってます。「最近野菜が高いから少し減らしちゃおう」なんて、そんなことしてたらおしまいですよ。商売というのは1日単位で考えちゃいけない。1年を通した平均でやるんだから、大丈夫。おかげさまで、店を始めて以来、ず~っと赤字というのはないんですよ。

「とき」の2大名物、グラタンとピザパイ。これはあれだ……

 そろそろマスターの本領である洋食メニューも味わってみたいと、「とき」の2大名物「グラタン」と「ピザパイ」をオーダー。マスターの「大盛りでございま~す! 美味しいよ~!」の言葉とともに目の前に届いたグラタン皿を見て、言葉を失った。これまたとんでもなくボリューミー! これはあれだ……アメリカン・カートゥーンのキャラクターたちが巨大なフォークで頬張り、僕らもブラウン菅の向こうに訪れたいと憧れた料理、その実写版だ!

皿からあふれ出すばかりの勢いでマカロニ入りのホワイトソースをよそい、チーズをたっぷりとまぶしてオーブンへ。
まるでアニメのような「グラタン」が降臨!

 クラブで出していた頃は、シュリンプを入れたりカニを入れたりしてデラックスにしていたんですけど、当時の日本人には、あまりゴテゴテ入れないほうが評判がよかったんですよ。以来、うちではずっとシンプルなマカロニグラタンで通してます。

差し込んだスプーンに感じるズッシリとした重み。持ちあげるとトロ~リと伸びるチーズの下、ホカホカのマカロニが。心温まる旨さだ。

 そして「ピザパイ」の美味しさ! 安定感! ここに「名物」の偽りなし! 甘酸っぱくて優しくて、素朴で食べ応えのある生地もうれしく、「またマスターのピザパイが食べたいな」と素直に思わされる。

ピザにパセリを乗せるマスターに「なにやってるの?」とマサヨさん。「だって写真撮ってもらうんだから、飾りがあったほうがいいだろ?」「いつもは乗せてないじゃない! ふだんやってないことやるんじゃないの! もう、バカじゃないの~。……はい、わたしたちはいっつもこうやって喧嘩してるんですよ(笑)」
かつての子どもたちを狂喜させた、「ごちそう」のイメージそのままのピザ。「パイ」とは言うものの、いわゆるオーソドックスなアメリカン・タイプで、日本でピザが食べられるようになった頃はこう呼ばれるのがポピュラーだったそうだ。
「ピザパイ」の辛味は3種類。写真右は「サービスで出すから食べてみる?」と出していただいたサラダ。「このドレッシングはホームメイドです。トマト・ケチャップをベースにしたフレンチ・ドレッシング。わたしが昔の人間だから、インスタントは使いたくないんです」

 興味の尽きない我々がたたみかける質問に、常にうれしそうに答えてくださるマスター。マスターの周囲で忙しく動き回る娘さんや店員さんたちへの想いを伺えば、「本当に助かってますよ。いちばん有り難かったのはわたしが病気したとき。娘たちがいなかったら、お店はたたむしかなかったでしょうね」との答えが。それならば、やはりマサヨさんにもお話を伺わねば。

 マスターは6年前に腎臓の手術で入院したんです。入院したのは2ヵ月間だったけど、それから1年間くらいはお店にも出られなかった。その当時はもう、ガールズバーですよ(笑)。今もマスターは夜9時までしかいないから、会いたければそれまでにお越しください。それ以降は今も女たちだけで夜中の2時まで。マスターは脳梗塞もやったんだけど、助かっちゃって後遺症もない。お客さんみんなに助けられてますね。
 わたしとマリさんが料理をつくることになったのも、マスターの入院がきっかけなんです。それまではお客さんといっしょに飲んでるだけだったんですけど、どうにかお店を続けなきゃいけないと、見よう見まねでやるようになって。この「大根おろし天」や「しょうが天」はわたしが考案したメニューなんですよ。

昔テレビで見たレシピをヒントにマサヨさんが考案したという「大根おろし天」
大根おろしに青海苔と小麦粉を足し、油で揚げる。それだけで驚くほどモチモチの絶品料理に。大根はおろし汁ごと使っているため、揚げものなのに後味はサッパリ。めんつゆでいただく。
「マスターがなんにでも紅生姜を使うことから思いついた」という「しょうが天」。こちらはぽってり厚めに衣をまぶし、玉ネギ、長ネギ、紅生姜をかき揚げに。生姜の塩気と辛味。なにもつけなくとも最高のおつまみ!

 ほかには「ドリア」や「砂肝あげ」なんかも研究しましたね。たった1年お店を任されただけでも、その経験は身になるもので、いろいろアイデアも湧いてくるようになって。
 そういえば、わたしにはアコちゃんも入れると3人の従兄弟がいるんだけど、3人ともこのお店で相手を見つけて結婚してるんです! あ、わたしもそうだった(笑)。だからもう、みんな家族のようなものなんですよ。ここはそういうお店なの。

「母の姉は国際結婚して、今はラスベガスにいます。立川の基地で働いたのをきっかけに、小さな頃からアメリカで暮らしていて、そこでメキシコ人の方と結ばれて。人の縁って面白いですよね」

「こうして身体を動かしながらね、ちょっとお酒で口を湿らせる。これが最高の健康法なんです」

 忙しさのピークを越えてひと段落すると、ひときわカウンターに馴染んだ常連客のひとりからボトルを差し出され、焼酎ロックをチビリチビリとやり始めたマスター。気づけば看板娘のみなさまも、思い思いにお客さんと乾杯している。厨房/客席という線引きはあるものの、ここに集まる人たちに、精神的な垣根はない。長年を経て培われたそんな想いの連なりこそが、気づけば椅子に根が生えてしまったかのような居心地の良さを生む理由なのだろう。

 こうやって身体を動かしながらね、ちょっとお酒で口を湿らせるのが気持ちいい。これが最高の健康法なんです。ただもう、昔ほどは飲めないですけどね。お客さんといっしょにたしなむ程度。今日だってグラスに1センチぐらいだから。
 昔はよく(酒の)失敗もしてね、もう25~6年前かな。ここで日本酒をたらふく飲んで、家に帰る途中にあったガソリンスタンドで寝ちゃったの。しかも、でっかい洗車機に車両を送るレールを枕にして(笑)。通りがかった知り合いが起こして助けてくれたんだけど、危ないよね~(笑)。
 昔はお客さんたちもすごかったですよ。朝の4時まで営業しててね、2時を過ぎたあたりから、営業の終わったスナックとか居酒屋の人たちがお客さんを連れて続々とやってきた。その時間からがまた大繁盛で(笑)。

開店当初「このくらいあればいいだろう」とつくったというキープボトル用の棚。が、今やボトルはクローク用の棚にまであふれ、さらに店の裏にも数十本を保管しているのだとか。「見つけるのが大変だから、お客さんに自分で探してもらってます(笑)」

 ここで本日のさらなるゲストにもご登場いただこう。飲兵衛のバイブル的漫画『酒のほそ道』の作者、ラズウェル細木先生だ。以前からこの店の前を通ることはあったが、意外にも入店は初めてというお話を偶然に伺い、同席していただいた。日本でも指折りの酒の達人は、今日を振り返ってどのように感じられたのだろうか?

ラズウェル細木さん。『酒のほそ道』は『週刊漫画ゴラク』(日本文芸社)で長寿連載中。コミックス40巻もまもなく!

 いやぁ、本当にいい店ですね。今のエピソードを聞いて確信しましたけど、同業者っていうのはいろいろ事情も知ってるし、よっぽどいい店じゃないとこないんですよ。それだけでも、ここがいい店だというのが証明されてますよね。
 またね、マスターのお名前が「アメリカに勝つ」という願いからつけられたのに、アメリカ文化を日本に伝えるような生き方をされてこられて、そこが皮肉というか、面白いというか。まさしく戦後の日本の生き証人ですよ。僕らの親の世代って、高度成長期を支えてきたパワーのある人たちなんですね。そのパワーをまったく衰えることなく保っているマスターは本当にすごい! いや~、もっと早く入っておけばよかったなぁ(笑)。

 酒の大家をして「本当にすごい!」と言わしめるマスター。だが、いっさい驕り高ぶることも、自慢話のひとつをすることもなく、ただ幸せそうに自分の仕事をこなされており、その姿は料理人、いや、人間としての到達点にも思える。マスター、今日から師匠と呼ばせてください!

 うちは完全な昭和レトロですよね。年配の人なんかが見えると、「おお、懐かしい店だな」なんて喜んでくれるんですよ。確かにこんなお店は今どきないですからねぇ。メニューも20年以上張り替えてません。チーズの値段がだいぶ上がっちゃって、ピザパイとグラタンだけは100円ずつ値上げしたけどね。ステーキは1800円で一番高級だけど、美味しいよ~。ひとつ焼くからみんなで食べてみます? 食べてもらったからといって、儲けはないですけど(笑)。

使い込まれたフライパンで豪快に焼かれる「ステーキ」
レアの状態のまま食べやすくカットしたのち専用の鉄板へ。
青森は田子(たこ)産のニンニク、マッシュルームやコーンもたっぷりと使い、シンプルな醤油ベースでの味つけ。ブランデーでのフランベは洋食コックの最大の見せ場のひとつだ。
噛みしめるほどに旨い赤身肉の食感に、過去にこのステーキを食べてきた常連たち、そして、屈強な米兵たちの陽気な笑顔までも浮かんでくる。

 赤身肉の旨さが充満したステーキをたっぷりと堪能、絶賛する我々をうれしそうに見守るマスター。ふと思いついたように「よろしければライスもありますよ? そうだ、〈ひとくちおにぎり〉つくってあげようか?」という優しきご提案! 全員が完全に満腹ながらも「確かにこのステーキを白米で追いかけたらどんなに幸せか……」と悩む間もなく──

 はい、かわいいおにぎり~! 新米だからね。美味しいよ~。

 おにぎりのサイズも、「ひとくちおにぎり」というネーミングも、マスターの笑顔も、すべてがかわいい。「洋食の定番」とともに夢中でかぶりついた「日本の心」の美味しいこと! ふわりと握られた新米の香り、甘さ、ごま塩加減も心憎く、これこそが、思わず涙がこぼれそうになる今回のヒトサラとなった。

とどめは光り輝く「おしんこ」

 最後に、取材をしていて気づいたこと。マスターは、料理をつくっているときは「美味しそう~」と、また、それを送り出す際には「美味しいよ~」と、必ず声に出す。酒の席を彩るこんなにも幸せな「口ぐせ」があるだろうか? こんなにも温かな店で働ける店員さんたち。そこに集える常連さんたち。幸福な酒場とはなにか? それを言葉ではなく、仕事の姿で、空気で、じっくりと教わったような、楽しくも奇跡のように美しい時間だった。

和風スナック とき 東京都練馬区石神井町7-6-11
03-3995-3261
営業時間:18:30~26:00
定休日:月・日曜日/祝日

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