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ヒトトヒトサラ

あの店のヒトサラ。
ヒトサラをつくったヒト。
ヒトを支えるヒトビト。
食にまつわるドラマを伝える、味の楽園探訪紀。

ヒトトヒトサラ50 / TEXT+PHOTO:嗜好品LAB ILLUST:山口洋佑 2017.4.30 品川区平塚「大滝」滝沢るり子さんの「青森のもずくキッシュ」

東急池上線・戸越銀座の名物といえば、東京屈指の長い長い商店街。その「商栄会」ゾーンの中腹に位置する「大滝」は、昭和47年の創業以来、幾多の酔客の古巣となってきた老舗である。女将の滝沢るり子さんは、なんとまだ高校生であった16歳からこの店の厨房に立ち、母トミさんの片腕となりながら、酔いの奥底にまでドスンと届く味と居心地を打ち立て、また、現在もそれを守り続ける熟達だ。
コの字のカウンターの隅々にまで気を配り、飄々と立ち回るるり子さんの額には、信頼のねじり鉢巻き。波瀾曲折の生涯をキリリと束ねる藍色のそれは、「古き良き昭和」などという慣用句では到底語り尽くせない、たくさんの光と影を映し出していました。

ふたつの入り口を有する「大滝」の外観。常連からの「今日は手前の席にいるからさ」という電話の声が聞こえてくるかのようだ。

「わたしが皿洗いをやるからお店を始めて!」母娘(おやこ)ふたりでつくりあげた、人生の定位置

滝沢るり子さん
開店当時の写真。左はるり子さんの母である滝沢トミさん。「母もまた勝ち気な人だから、〈大滝〉という店名の由来は、近くにあった〈養老乃瀧〉さんには負けらない!ということだったみたいです(笑)」

 この店の開店のきっかけは、わたしの「通学嫌い」なんです。わたしが高校に通い始めた頃の山手線というのは本当に痴漢が多くてね、女子生徒はみんな大変な目に遭っていたんです。今だと考えられない話ですよね。だから当時のわたしは「このまま社会人になったら地獄の通勤が待っている!」と震えていて、それまで田舎料理しかやったことのなかった母に、「わたしが皿洗いをやるからお店を始めて!」と頼んでね。その頃のわたしはまだ16歳。よく言うことを聞いてくれたと思いますね。

 いきなり衝撃の被害者体験が飛び出したが、そもそも痴漢なんぞの卑屈な手口に負ける「女学生るり子」ではなかった。通学嫌いはあくまで水端のひとつであり、「もともと人に押さえつけられてハイハイ言うことを聞けるような性格じゃなかったんで、お勤めには向いてないと思ってね(笑)」というのもまた、本音なのだそう。

 あとは毎週のように小料理屋や焼肉屋、ときには海のほうまでわざわざ貝を食べにいくような家庭に生まれ育ったということもありますね。だから小さな頃から料理には興味があって、中学生ではケーキやクッキーづくりにハマっていました。あの頃、材料が無駄になるのもお構いなしに好き勝手にやらせてくれた母には感謝しています。

この日のお通しは「鯛の卵の煮つけ」。毎朝築地に出向くというるり子さんも太鼓判を押す、旬の味覚だ。

 やっぱり小さな頃にいろんなものを食べるとか、なにかしらの料理を体験するというのは重要だと思います。今もうちの料理は「ひとつの食材からどれだけ幅広いものをつくれるか」というのが基本になってますね。この「トマトの漬物」というのもそのひとつかな。最近はデパ地下なんかでも売っていることが多いから、みんな考えることはいっしょなんだなって思いますけど、うちはかなり早い時期から出していましたね。

大滝の「緑茶ハイ」は抹茶の粉から。「レモンサワーやウーロン割りだと飲み続けるうちにあの刺激に胃がやられてしまうんです。これなら飲みやすいし食事にも合うでしょう?」とるり子さん。

 確かにこの漬物には貫禄を感じる。湯剥きされたトマトに染み込んだ漬け汁はしっかりと濃い口で、果肉の甘みや爽やかさを気骨ある酒のつまみへと育てている。飲み屋の料理は上品すぎてもいけない。酒の介添えでなくてはならない。その塩梅というのを実に心得た味なのだ。

 前にあるお客さんが、どこから買ってきたのか、トマトをシロップに漬けたものを持ってきてね、そのときはみんなで「美味しいおいしい」と食べていたんですけど、わたしの目はお世辞を見抜くんです(笑)。正直なところ、昔ながらの常連たちはなんともいえない表情でしたね。ワインといっしょならいいのかもしれないけど、このカウンターにはちょっとナンセンスかなって(笑)。

高い天井が気持ちのいい店内。「ここは煙草の煙も気持ちよく抜けてくれるんです。天井を拭いてくれるのは息子ですね。息子が小さな頃は弟がやってくれていました」とるり子さん。

 また、大滝を訪れたなら必ず味わっておきたいのが、「もずく」を使った料理である。常時水面下に沈んだ状態の岩礁、いわゆる「しもり」に生息するこの海藻は、一般的に沖縄産のものがブランドとされているが、るり子さんが長年に渡り信頼しているのは青森産のもの。海水を貫く太陽光と潮の流れが育んだ、驚きのナチュラル・ボーン・アルデンテだ。

 沖縄産でも天然のものは美味しいと思いますけど、こっちにくるのはほとんどが養殖。だからちょっとブヨブヨしているんですね。うちのもずくは青森の海、それもかなり深い場所から素潜りで採られているもので、いわゆる底物(そこもの)でないとこれだけの太さや食感は得られませんね。

この「もずく酢」をチェーン居酒屋で出される小鉢のそれと比べてみれば、その違いは歴然。素人が茹ですぎてしまった冷凍うどんとイタリアンの達人による生パスタほどのコシの差が感じられる。

 これは世界自然遺産の白神山地で有名な鯵ヶ沢(あじがさわ)に旅行したときに、海産物を売っている小さな市場で知り合った漁師さんから直接買っているもので、もう25年になるのかな、年間2回にわけて30キロを送ってもらっています。だからたっぷりと出してあげられる。バブルの時代に山形から買っていたときは10倍ぐらいの値段がしましたし、もともとこれだけのものは築地にすら入りにくい。だからこそ食べてもらう価値があるのかなって。

日本酒は秋田・天寿酒造の「鳥海山」をいただいた。「日本酒度+15」の超辛口であり、「伝口切幸(でんこうせっか)」のラベルそのままのキレのある味わいが、片口になみなみと!

 大滝の「もずく酢」は、その食感といい、喉に優しい酢加減といい、居酒屋料理のひとつの究極。針生姜の清涼感やきゅうりの歯応えも、まさに「これこれ!」の黄金比率。「このもずく、もう少し味わいたい!」という向きには、ぜひとも「キッシュ」も試していただきたい。

 このメニューはまだ新しいんですよ。ヒントになったのはうちの孫娘の大好物なんです。もずくを使った卵スープが好きで、よくつくってあげてたんですね。そしたらある日、この店の目の前に住んでいた常連の女の子から新メニューをねだられて、「試しにつくってみたい料理があるんだけどそれでもいい?」と出してみたのがこれなんです。だからキッシュといっても卵焼きと茶碗蒸しの中間みたいな料理で、基本は和食。つまみにも締めにもなりますし、男の人も女の人も大好きで、もはやうちの看板メニューになってますね。

 店頭に出された黒板にも、店内のメニューにも、トップに書かれているのがこの「青森のもずくキッシュ」だ。使い込まれたフライパンでフルフルと火を通された「濃厚なかき玉汁」はどこまでも柔らかながら、もずくの食感はそのままに残るため、たっぷりとデコレートされたマヨネーズにも罪悪感がない。ここには「香りや食感も味のうち」と語る女将の遊び心がピンと映えている。

もずくのプツプツとネギのシャキシャキをぽってりとした厚みに託して。ひと口で頬張れば、身体中を薄黄色の幸せが駆け巡る。

 そんなるり子さんの遊び心は確かな料理の腕に支えられたもの。いざ大滝で「ポテトサラダ」を注文してみれば、取り出されるのはタッパーでもチューブでもなく、大ぶりの男爵芋。るり子さんはカウンターからの注文ひとつひとつに、イチからの手づくりを徹底しているのだ。「お母さんのポテトサラダ」というメニューの名に、嘘や濁りはないのである。

真っ白な湯気と格闘しながら男爵芋をマッシュすれば……
できたての温製がうれしい「お母さんのポテトサラダ」の完成。

 美味しいポテトサラダの条件は、じゃがいもが適度なかたちを残したまま崩れていること。だから水気の多い新じゃがなんかは向かないし、ホクッとならない。
 もちろん「お母さんの~」というのは「手づくりの~」ということですけど、うちは家族三代できてくれるお客さんもいるぐらいなので、わたし自身のことをそう慕ってくれる常連さんもいますね。小さな娘さんに「パパ、今日はおばちゃんとこいこうよ」なんてせがまれるお父さんもいますし、その子はその子で常連に成りきって、ほかのお客さんとも仲よくなっちゃったり(笑)。
 とうとう結婚が決まりそうだと女性を連れてきて紹介してくれたお父さんなんかもいます。その人は晩婚だったから会社には知られたくなかったみたいで、同僚の人が「なんで俺たちが知らないのにお母さんが知ってるんだ! 気分が悪い!」なんて怒っちゃって(笑)。

「この店の後継者は、うちの孫娘かもしれません。まだ5歳ですけど、この前も〈わたしが保育園をやめてお店に立つから同じハッピを買って! おばあちゃんは休んでていいの!〉なんて言われちゃいました(笑)。やっぱり根っこが似てるんでしょうね」

 このカウンターというのはコの字だから、お客さん同士の顔も見えるし、常連たちはみんなが顔見知りです。わたしが目を離している間に、勝手に席を移って飲んでいることも多いぐらいで。だからこそ、この店に合わない人には敏感になります。わたしも無視したままにしちゃうし、「居酒屋じゃなく小料理屋だから好き勝手にやります。お客は選びます」という姿勢です。なによりうちのお客さんはみんな穏やかでいい人たちばかりだから、ヘンな人は自然といづらくなるんですけどね。

2億円もの借金と、ある常連の死。任侠映画のような波乱に満ちた、大滝の歴史

 粋な女将を支える粋な客。この話をきかっけに、時代はふたたび開店当初へと遡る。

 わたし自身もずいぶんお客さんには助けられてきたんです。あの頃は本当に粋なお客さんが多くて、銭湯帰りに着流しのまま入ってきたり、洋風かぶれのおじいさんは葉巻だのパイプだのをふかしていて、この近所にはわたしのことを「ねぇちゃんがんばってるか!」と可愛いがってくれるおじいちゃんというのがたくさんいましたね。
 わたしのお給料だってすごくよくて、毎日2時間ぐらい手伝って、月に2万円も貰えていましたから、高校生だといくら洋服を買っても使い切れない。昔の2万円というのは大卒の初任給よりも高かったわけで、わたしは母に純粋なお小遣いというのをもらったことはありませんね。
 ただ、そのあとの転落というのがすごかったんです。わたしの父は建売住宅を売る建設会社をやっていたんですけど、この店が毎晩5回転ぐらいするほどに流行ったものだから、自分でも似たような店をどんどん始めてしまって、結局は2億円もの借金をつくって逃げてしまった。
 わたし自身も16歳からの水商売人生でしたから、興味半分で公務員の人と結婚してみたら、半年で飽きてしまって(笑)、シングルマザーなんて言葉がない頃からシングルマザーになってしまった。その頃の不動産屋はまだまだ保守的だったから、マンションも貸してくれないという状況で……。

 2億。しかしこの途方もない借金を、るり子さんはこの店の収入のみで完済するのである。それまでには25年という歳月を要したという。

 借金の話をすると、ものすごく気の毒に思ってくれるお客さんもいるんですけど、実はそこまで切羽詰まって返していたわけでもないんです。粋な常連さんは伝票なんて見ずにポーンとお金を置いていってくれましたし、母にはお小遣いを、弟には大学の学費も出してやれた。なによりわたしは前向きな性格なので、人間は「自分の範囲」で生きていたほうが充実できるということを早くからわかっていたと思います。
 以前、青森の大地主だというお客さんがいて、5年ぐらいは景気よく飲んでいたんですね。とにかく酒飲みだし、注目されるのが大好きな人。でも、だんだんと風体がみすぼらしくなっていって、うちより安いチェーン居酒屋なんかに出入りするようになっていった。そんな時期にその人が「俺は60歳で死ぬんだ」って言うんですよ。てっきりわたしは健康診断かなにかに引っかかったんだと思っていたんですけど、その人はカード会社から借金をしまくっていて、60歳になったときに、まっ裸で新宿の高層ビルから飛び降りてしまったんです。覚悟してお金を遣っていたとはいえ、そんなことできますか? できませんよね? もしローン会社に訴えられたとしたって、1万円でも返していけば返していることになるんだし、いくらお金がなくたって、生きていれば楽しいことだってあったはずなのに、派手に「自分の範囲」というのを超えてしまうからそんなことになるんです。本当にお金のある人は、お金があるなんて言わないものですよ。

締めがわりに注文した「スルメイカの天ぷら」は、香ばしく甘い衣に褐色の塩気がたまらない。もずく料理同様に、ここにも食感の素晴らしさが。

 ここでさきほどまでカウンターの隅で刺身をつまみつつ、持ち込みの梅酢で焼酎を飲んでいた常連Aさんが話に加わってくれる。(編注:基本的に「大滝」は持ち込み不可。ただしこの常連Aさんは入ってくるなり女将に買い出しを頼まれていた。「お客さんに買ってきたもらったお酒を出してお金をもらえるなんて、なんて素敵な商売なんでしょうね(笑)」とルリ子さん)

「ここはまず自分の仕事仲間は連れてこないね。この界隈で飲むことがあっても、わざと車を手前で降りたりしてね」と常連Aさん。 会津特産の高田梅から抽出された「赤梅酢」をお持ち込み。さすがは美味いものをご存知で!

 まぁ、苦労を苦労だと思わないのが本当の苦労人という説もあるけどね(笑)。このママさんは60歳を過ぎて、女としてはなんともいえない時期にきてるけど(笑)、この美貌と器量があれば、青山や銀座でいくらでも楽をして稼げたわけ。
 前にこの人が倒れて救急車で運ばれたときにね、バイトで入った若い女の子がいるんだけど、その子の働きっぷりを見ていると、全然話にならない。商売のマナーっていうのをわかってないから、ベタベタと金を持ってる客に絡んだりしてね。ロクに自立もせずに、人に奢ってもらうことのかっこ悪さのことも自覚していないんです。
 本来の酒場っていうのは、がんばってるママの顔を見にきて、うまい酒を飲んで、ときには「あなた飲みすぎよ。しゃきしゃき喋りなさいよ」なんて怒られながら、あぁ、今日も1日が終わったと、癒される場所なんですよ。そういうやりとりにこそ、僕らはお金を払う。お店側の人間も、お客も、楽をしすぎちゃダメなんですよ。

 るり子さんが、「やっぱり男の人って頼りにされることにうれしくなっちゃう。そこで騙されちゃうんでしょうね」と笑えば、「この人を口説ける男がいると思うか? この女を口説ける男は一人前ですよ」と常連Bさん。
 るり子さんが、「昔はダイヤの指輪を持ってくるチンピラがいてね、いつまでも帰らないからホースで水かけちゃった(笑)」と告白すれば、「伊達に鉢巻きしてないからね! たまに飲みすぎるとリボンになるけどね!」と常連Cさん。
 気づけば「大滝」は開店時刻を回り、だんだんと活気づき始めた店内は、美しき飲兵衛たちの理想郷へと姿を変えつつある。そろそろ僕らもレコーダーを止め、本腰を入れて飲むことにしよう。


 わたしがこうして頑張れるのは、料理や商売が好きだから。好きだからこそ、始めた以上は負けたくないという気持ちがあるからですね。
 思い起こせばこの鉢巻きというのも長いですけど、これもとくに借金をしたから頑張ろうという意味ではないんですよ。やっぱりこれもお客さんのため。だって料理屋に入ってきて、女性が前掛けなんかしてたら、おうちで飲んでるみたいで気分が出ないでしょう? たまにエプロンをして髪なんか下ろしてたりすると、「やめてくれ!」って言われちゃいますよ(笑)。本当は60歳になったら着物を着たかったんだけど、このぶんだと、それはずいぶん先のことになりそうですね(笑)。

大滝 東京都品川区平塚2-18-3
電話:03-3785-6082
営業時間:17:00~23:00
定休日:日曜日

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