

サイドオーダーズ33 / TEXT : 木村衣有子 PHOTO:嗜好品LAB / 2017.2.28 酒器?酒器?大好き?──木村衣有子
「文藝春秋の人ですよね?」
「いえ、違います。フリーランスで物書きやってます」
初対面の人とのそんなやりとりからしばらく経って、そうか『のんべえ春秋』のことを言っていたのかもしれない、と思い当たったが、時すでに遅し。
2012年にそういう名のミニコミを創刊した。こちらとしては「のんべえはるあき」と付けたつもりだったのだが、たいていは「のんべえしゅんじゅう」と呼ばれる。そう、かの雑誌のタイトルと韻を踏んでいるようでそちらのほうが口に出しやすいのだった。そう気付いたのも2号を出した後である。えらいうっかり者のようだ。
4号からは、奥付に「はるあき」と「しゅんじゅう」のダブルルビを振っている。とはいえ、そんなところまで見届けてくれる人は少ないだろう。
最新4号までの看板となっているのは「酒器酒器大好き」というページ。20年ほど前に本屋でアルバイトしていたとき、後輩が平積みしていた本、R.D.レイン『好き?好き?大好き?』のもじりだ。そういや、戸川純の名曲「好き好き大好き」もこの本からの着想なのか、どうだろう。
酒器とは文字通り、お酒の器である。飲むための器は、日本酒だったら例えば盃、蕎麦猪口、コップ。焼酎、ビールやワインだったら、これもコップ、あるいは、脚があったり背が高かったりといろいろなグラス。お酒を飲むために作られたものでなくとももちろんかまわない。ただ、酒席の気分がこわれないものがいい。
そして、注ぐための器は、日本酒だったら徳利や片口、焼酎はヂョカ、ワインだとデキャンタ。
その中でも、かなりプレーンなデザインのものばかりに着目している私だ。大衆酒場で使われるものをお手本にしたような、木綿のシャツとかデニムのスカートのような、ケの酒器。
過去に雑誌などで酒器がとりあげられているのを見ると、輪郭がぐねぐねと波打っていたり、表面がえらくごつごつしていたり、押しの強い色柄でいろどられていたりという盃や片口であることが少なくなかった。そういう、過度にドレスアップしたおおげさなタイプはそもそも好みではなくて。探していくと、もちろん世の中にはケの酒器は数多あると分かった。ただ、今、わりとつつましい生活感覚をもって、真摯に酒器とそれ以外の器をひとつひとつ手でこしらえることを生業としている人はすごく沢山居るわけではない。
「酒器酒器大好き」は、やっと知り合えたそんな人たちへの聞き書きを軸としている。ただ、自分がそういうものを読みたいなと思って始めた企画だった。
お酒の空き瓶を融かし、それを原料にしてコップを作る人。
栓抜きやぐいのみのフォルムを考えるプロダクト・デザイナー。
酒器専門のやきもの工房を営む夫婦。
色っぽい輪郭の徳利を作る人。
話を聞いてみて気付いたことのひとつ。酒器を作る人は、骨董からヒントを得ている場合が多いこと。たしかにそれはそうで、飲みものを入れて、そのまま口に運ぶという役目を果たすための道具の形態は、ずうっと昔からほぼ変わっていない。いつも新しいもののほうが優れているというわけではないのだった。
私の手元にある酒器はそれほど多いわけではない。酒器の研究はしたくても、手持ちの数を誇るコレクターにはなりたくない。なれない、というのもある。引越魔なので。漆の器はまだしも、ガラス、やきものの器の梱包と運搬はなかなか骨が折れるものなのだ。
その中でもいちばん沢山持っているのは、昭和の盃。
骨董店やバザーなどで安価ならばなるべく求めるようにしている。ほんの一口しか注げないような小ぶりなものがほとんどで、実用的かと問われれば難しいところだ。が、あしらわれている文字や絵のちょうどいい塩梅の洒脱さは今のものにはほとんど見られない。酒蔵の名が記されているのも、お酒の歴史的には気になる。健在なものもあればもはや現存しないものもあって。まあ、いちばん大きな理由は、私が所持している祖父の形見は、そういう時代の盃数個だけだから、というところにある。仲間を増やすような気持ちで手にとっているのかもしれない。
それから『のんべえ春秋』創刊号で特集をした「左藤吹きガラス工房」のコップと盃。
初めて求めたのは「ワインコップ」と名付けられた、すっと立っていてぐるりと縦ひだが入っているものだった。お酒の廃瓶を集めて砕き融かし、それを原料にこしらえた器だと知り、その循環ものんべえにはぴったりだと思った。また、居酒屋で瓶ビールと一緒に差し出される、小ぶりなコップと同じくらいの大きさの、こちらもすっと立っていて飾りもないものには「究極の居酒屋風コップ」と謳い「居酒屋Z」と名付けられている。そのネーミングのセンス、そして、素っ気なさと美しさのバランスがとれていて、日常にぴったりおさまるコップの姿のよさ。
そもそも酒器の佇まいに初めて着目したのは二十歳そこそこの頃。やっぱりコップだった。ワインは脚のあるグラスで飲むよりもデュラレックスのコップで飲んだほうが楽しい、と思ったのだった。ビールと梅酒の無限ループから抜け出して、背伸びしまくって飲んでいたワインというお酒を我がものにすることができる気がした。蛇足だが赤ばかり飲んでいた。今でも白は自分にとっては当たり半分外れ半分という気がして、あまり積極的には飲まない。
それから5、6年経ち、新宿三丁目の『鼎』が、日本酒飲み始めの店となった。そこでは青森の「田酒」をしばしば飲んでいた。よく冷やした田酒が、片口に満たされて運ばれてくる。『鼎』の片口は民窯のやきものが主で、当時のメモには「お酒の泉を覗き込みながら、きれいなその泉から直にお酒を汲んでいる」とある。それまで片口というものは身近な器ではなく、その目新しさにも、知ったばかりの日本酒の味と相まって惹き付けられた。
燗を付けることを覚えたのは三十路前後だった。だから徳利の立ち姿をしげしげと眺めるようになったのも、それから。
酒器について書いてみる以前は、器の容量にあまりにも無頓着でいた。酒場にて、熱燗ひとつ、と注文し、徳利を差し出されたらただそれを受け取っていたが、たしかに一合だわ、とか、いやこれは八勺だよね、とか、だいたい見定められるようになった。
少し昔に活躍した工業デザイナー、秋岡芳夫の本『食器の買い方選び方』には「身の回りのモノを測ってみると、径七五~八〇ミリの太さが多いのに驚く」「径二寸五分(七五ミリ)から三寸(九〇ミリ)までの“三寸もの”は、男女兼用のサイズだ」などとある。そう、例えばビールの大瓶の径はそのあいだにおさまる。
ただ、あえて尺貫法にのっとらないサイズで作ることにしているという人もいる。その人はやきものの作り手で、日本的なサイズの感覚に縛られたくないと言っていた。
そういや、このところ「合」という単位を示さない酒場も少なくない。例えば「半合」ではなくて「90ml」と品書きにあるのをしばしば見かける。よくも悪くも、曖昧さが排除されつつあるのだなあ。
とはいえ、日本酒を離れてもまた別のローカルな単位はある。こないだ、老舗のバー『サンボア』に、ハイボールについて話を聞きに行ったとき、堂島の店主は専用のタンブラーを「10タン」と呼んでいた。「10ozタンブラー」の略である。1ozはおよそ30ml。ウイスキーを、シングルで、と注文すると1oz出てくる。これはアメリカの単位に倣っているという。
酒器はいつも、お酒のおいしさを受け止め、支え、こちらの口に入る手助けをするだけでなく、程よい塩梅を計量してもくれているのだなと知ると、余計に愛着がわく。

前の記事 テキーラ、その誤解と冤罪 ──伊藤裕香 |
次の記事 ひとりで呑む読む。酒呑みのための読書案内 |